乳と卵


川上未映子『乳と卵』読了。芥川賞受賞作でいま旬の評判小説。『文藝春秋』2008年3月号にて「受賞者インタビュー」とともに読む。読み始めると、文体に関西弁が多用されており、ワンセンテンスの異様な長さは古風な、明治の小説を想起させる。それもそのはず、川上さんが自ら告白するように、樋口一葉たけくらべ』へのオマージュになっている。



乳と卵

乳と卵


太田越知明『きだみのる』(未知谷)、大宮勘一郎『ベニヤミンの通行路』(未来社)、吉田秀和『永遠の故郷、夜』(集英社)の三冊がてもとに届き、スラヴォイ・ジジェクラカンはこう読め!』(紀伊国屋書店)も入手し、とりあえずわくわくしながら、ジジェクを読み進めている。しかし、私の眼は川上未映子の奇異な文体に惹きつけられる。いったいこれはどうしたことなのだろう。


そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります

そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります


「わたし」の姉巻子は豊胸手術のために娘の緑子を連れて東京にやってくる。緑子の日記らしき文章が、本文の合間に置かれる。少女から大人の女性に変貌しつつある緑子から視る母。また「わたし」が視る姉の身体が語られる。内容がとりたたて新鮮というわけでもない。


文体の不思議さとともに、文法的に如何かと思われる箇所もある。すらすらと読めない異和感を抱きながら、それでも最後まで読ませる文体の強度が内包されている。それが川上作品の魅力なのだろう。


死霊(1) (講談社文芸文庫)

死霊(1) (講談社文芸文庫)


川上さんは、哲学の池田晶子さんや永井均氏の影響を受け、埴谷雄高『死霊』に「哲学と詩」が同居していると感激したことを、インタビューで述べている。


樋口一葉 [ちくま日本文学013]

樋口一葉 [ちくま日本文学013]

樋口一葉の文体は、見たこと、聞いたこと、感じたこと、目の前で起きていることが、カギ括弧も句読点もない一文の中に編みこまれていますよね。気になって何度も読み込んでいたから、自分で文章を書くときにもろに影響が出てきたみたいです。(p.349「家には本が一冊もなかった」)


わたくし率 イン 歯ー、または世界

わたくし率 イン 歯ー、または世界


川上未映子の処女作『わたし率イン、歯ー、または世界』(講談社、2007)でも、心身の問題を「歯」という身体の部分に象徴させ、あるべき「わたし」の「自同率」を問うている。『わたし率イン、歯ー、・・・』が、埴谷雄高の『死霊』からの影響、受賞作『乳と卵』が樋口一葉たけくらべ』と看れば、彼女の位相がわかる。歌手の経歴やファッションと、心身問題が無関係ではない。換言すれば、川上さんは只者ではない、というわけだ。


にごりえ・たけくらべ (岩波文庫 緑25-1)

にごりえ・たけくらべ (岩波文庫 緑25-1)


敢えて一言すれば、明治という時代的緊張のもと貧困の中での執筆を強いられた樋口一葉と、貧乏を明るく語る余裕をみせる川上氏の違いは大きい。それを単純に、作家が生きる時代の差異とみることでいいのだろうか。その答えは、川上未映子の今後の作品に期待することになる。


ラカンはこう読め!

ラカンはこう読め!


スラヴォイ・ジジェクによれば、ラカンのいう「人間の欲望は他者の欲望である」とは、

ラカンにとって、人間の欲望の根本的な袋小路は、それが、主体に属しているという意味でも対象に属しているという意味でも、他者の欲望だということである。人間の欲望は他者の欲望であり、他者から欲望されたいという欲望であり、何よりも他者が欲望しているものへの欲望である。(p.67『ラカンはこう読め!』)


となり、自分が何者であるか(自分の真の欲望)と、他人は自分をどう見て、自分の何を欲望しているのかを区別することだとすれば、川上未映子は、「わたし」は私であるという「自同率」問題と、他者(選考委員)に何を欲望されているかを熟知している成熟した女性作家という解釈はどうであろうか。いや、いささか急ぎすたようだ。


先端で、さすわさされるわそらええわ

先端で、さすわさされるわそらええわ