とらんぷ譚


ヌーヴェル・ヴァーグトリュフォーゴダールたちが リスペクトしている作家サッシャ・ギトリとらんぷ譚』(1936)がDVD発売された。名前のみ繰り返し聞いている伝説の作家・映画監督にして劇作家。シネフィルなら見逃せないフィルムだ。


とらんぷ譚 [DVD]

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ギトリのナレーションで、ペテン師の生涯が回顧される物語の進行は、今観ても斬新であり、全編のほとんどの台詞はギトリの語りで構成されている。


冒頭のタイトルバックも、ギトリの語りで映画制作に関わった撮影・音楽・製作そして出演者たちを紹介して行く意表をついた出だしになっている。

「世は逆ま」と人は云うが、この言葉を身を以て体験した男が僕である。変転極まりなき四十年の生涯は、先ず僕が十三歳の時に始まった。僕の家は村の雑貨商だった。或日ビー玉を買いたい一心で八銭を盗んだところ、カンカンに怒った父は「盗人した奴には飯なんか食わさない」と怒鳴った。そして僕は其の時の御馳走であった茸を喰わして貰えなかったが、間もなく僕を除いた十一人の大家族が一朝にして死んでしまった。その茸たるや恐るべき毒茸だったのである。(Movie Walkerから引用)


13歳の少年が大家族のなかで一人生残るシーンは、食卓に全員揃ったショットのあと、テーブルに少年一人が残ったカットを見せることで、家族・親族の死を一瞬にしてあらわしている秀逸なシーン。


ロシアのテロリストたちに脅迫されるシーンは、暗闇にテロリストの顔をキャメラが仰ぎぎみ光を当ててに写される表現主義的手法があり、また詐欺のパートナーとなるために結婚した妻との出会いは、妻ヤクリーヌ・ドリュバックの顔のクロース・アップを数バージョンでみせる趣向など、実に見事な演出である。


モナコのなかの田舎地方モナコとカジノがある都市モンテカルロを対照的に切り返しによるカットで見せるシークェンスは、ギトリのドキュメンタリー風ナレーションにより鮮やかに対比される。


ギトリが別れた妻と詐欺の相棒だった女性二人と食事をしながら、今晩どちらと付き合うかを、テーブルの花瓶を妻と詐欺女性の前に交互に置きながら、主人公の心理をモノローグで語るシーンも巧い。


軽蔑 [DVD]

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このように、数々の名シーン・名シークェンスから構成されている『とらんぷ譚』は、映画を観る楽しみ、ギトリのナレーションの心地良さ、映像の工夫など、見所満載であり、ゴダールが冒頭のノンクレジットの模倣や、トリュフォーのナレーションはすべてサッシャ・ギトリのフィルムに影響を受けていることがわかる。


大人は判ってくれない [DVD]

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サッシャ・ギトリは、不幸にも日本公開されている映画が少なく、これからでもいい、全作品が早急にDVD化されることが期待される作家だ。映画ファンは『とらんぷ譚』を観るべし。


■追記1

なお、フランソワ・トリュフォーは、サッシャ・ギトリとらんぷ譚』について、つぎのように告白している。

1945年、わたしは13歳だった。サッシャ・ギトリの『トランプ譚』はそれよりも8年前の作品だったが、その新鮮な魅力をいつまでも失わず、パリのカルチェ・ラタンにあるシャンポリオン座という映画館には年に何回もかかった。そのたびにわたしは見に行き、12、3回は見て、あの、映画音楽のように美しく快く陶酔させるサッシャ・ギトリのナレーションをことごとく暗記していた。・・・(中略)・・・サッシャ・ギトリの『トランプ譚』という映画が、まさにチャプリンの映画のように、生きのびること、いかにして人生を、社会を、機敏に狡猾に生き抜いて個人主義をつらぬくかというテーマを描いた作品であることを思い出してただきたきたいと思う。(『トルフォーによるトリュフォー』(リブロポート、1994),p.14)


■追記2(2008年2月24日)


フランソワ・トリュフォーは、インタビューの中で次のように回答している。

かつてハッピーエンドというのは、要するに結婚でした。しかし、サッシャ・ギトリはこう言っています。「結婚で終わる喜劇は、悲劇のはじまりなのだ」と。(山田宏一フランソワ・トリュフォー映画読本』(平凡社、2003),p.575)


フランソワ・トリュフォー映画読本

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