魅せられて


魅せられて──作家論集

魅せられて──作家論集


蓮實重彦『魅せられて』(河出書房新社)には、作家論集という副題が示すとおり、蓮實好みの作家が取り上げられている。冒頭に樋口一葉を配置し、最後に阿部和重をもってきているのも、単なる近代文学の歴史的な俯瞰を示していること以上の意図を感じる。


ここでは、漱石の『道草』を論じた「修辞と利廻り」、『それから』の恋愛について言及した「試練と快楽」について触れてみたい。蓮實重彦には、周知のとおり異色の『夏目漱石論』(筑摩書房、1978)*1があり、その延長上で、前者が1990年、後者が1980に雑誌『國文学』に掲載されたものである。


『道草』とは、漱石の唯一の私小説というのが定説であるが、当然、蓮實重彦は、漱石の私生活に結びつけて読むなどといった方法はとらない。あくまで、漱石の「ことば」にこだわる。健三の職業は通常、「教師」と解釈されるが、表現上では、「多くの人より一段高い所に立」つ、「首が回らない程高い襟」と表現する漱石のテクストを尊重し、「ハイカラ」という言葉への置き換えを回避している。

健三とは、何よりもまず、「首が回らない程高い襟」で全身をこわばらせ「多くの人より一段高い所に立」ち、また、「赤い印気を汚い半紙へなすく」ることを日々の義務とした存在なのであり、こうした一連の換喩的な比喩形象が、居心地の悪さ、憐れさ、救いのなさといった概念を想起させるものであることは見落とさずにおこう。(p.34)


蓮實重彦の「健三」を規定することばは、あくまで、漱石によるエクリチュール(書かれたテクスト)にこだわる。健三と養父・島田との関係から、次のような言説が導きだされる。

奇妙なことに、健三が意図的に報酬を期待して仕上げた文章が小説だとはどこにも書かれていない。大学教授という「職業」が間接的な比喩を通してしか語られていなかったように、「自分の血を啜」るかのようにして書きあげた文章がいかなるジャンルであるかは記されてはおらず、われわれが知りうることは、それが「益(ますます)細かくなって行く」文字で綴られたものとは異質の文章だという点のみなのだが、『道草』の言葉の修辞学的な秩序からすれば、そうした差異が明らかとなればそれで十分なのである。(p.44)

そして、次なる結論めいた言葉に、驚かないわけにはいかない。

芸術を信ずる者の孤独な善意によってではなく、金銭との交換を期待する者の差引勘定によって可能となっている点が『道草』の特異さだといえよう・・・(p.44)


管見の限りでは、『道草』のこのような解釈は、蓮實重彦以外にはありえない。


『それから』の、代助と三千代の愛の確認方法についての蓮實重彦による解釈もユニークだ。漱石の愛の形は、つねに三角関係で、友人や兄弟を裏切るケースが多いのだが、『それから』も平岡と妻・三千代と、平岡の友人の代助の三角関係を描いている。蓮實重彦によれば、I love you の翻訳のことばで、「愛」を告白することは日本文学では、稀有なことだという。


代助が三千代に告げることばは、「僕の存在には貴方が必要だ。」であり、「代助の言葉は官能を通り越して、すぐ三千代の心に達した。」と漱石は書いた。

蓮實重彦によれば、「情報の伝達は完璧である。」という。

I love youが日本語に翻訳しがたいという漱石の自覚いらい、「私」と「貴方」との間に介在すべき「愛」の能動的他動詞性を回避しながら、その等価的表現の模作にあけくれてきた近代日本の小説は、恋愛を、快楽の対象ではなく、二人してくぐりぬけるべき試練のごときものに仕上げた。(p.58)

すべてが、「愛」の一語をめぐる漱石の文体上の配慮から始まり、それがいまなお、まぎれもない現実として機能しているということを、改めて想起しておくにとどめておこう。(p.58)


『道草』の特異な解釈はさておき、『それから』以後の作品に象徴される<恋愛の構図>は、「愛」ということばをめぐり、それが近代文学の「試練」として、以後の作品群をも規定し続けたという指摘は、いかにも蓮實的言説であり、刺激的かつ説得的な解釈だ。


蓮實重彦夏目漱石論』が、「横たわる漱石」なることばに代表されるように、テクストを読み込む解釈によって、新たな漱石像を提示した。その後の漱石論も、テクスト論の延長上にあることは確かなようだ。このような読み方は、漱石の思惑から乖離した言説として、漱石のテクストが、「浮遊するシニフィアン」(ラカン)のように機能するとすれば、「象徴界」の漱石のみが対象となり、「想像界」へは、たどりつけないことにならないだろうか。*2


道草 (岩波文庫)

道草 (岩波文庫)

それから (岩波文庫)

それから (岩波文庫)

*1:ISBN:4828830766

*2:ここでは、シニフィアン/シニフィエで言及していたが、「パブロフのワン君」がソシュール云々を持ち出す誤解を避けるため、表現を変えたことを断っておく。(2005.8.16)