大人にはわからない日本文学史


岩波書店刊行の「ことばのために」シリーズで、唯一残っていた一冊。高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史』(2009)を読む。


大人にはわからない日本文学史 (ことばのために)

大人にはわからない日本文学史 (ことばのために)


樋口一葉綿矢りさ川上未映子の接近は、リアリズムとは何かを考えさせる。とりわけ、未読の綿矢りさの文体の魅力が、著者によって導かれたことの意義は大きい。


インストール (河出文庫)

インストール (河出文庫)


綿矢りさの文庫本『インストール』にのみ採録されている「You can keep it.」を読み、高橋源一郎が激賞する理由が分かった。

ここには、現在のところ、日本語の文章がたどり着いた比喩の極点が位置しているようにわたしには思えます。/小説による言語表現の一つは、比喩を書くことです。・・・(中略)・・・およそいかなる表現も、先行する表現を超えようとし、先行する感覚をさらに繊細な感覚によって置き換えようとするものです。だとするなら、『You can keep it.』における比喩的表現は、日本の小説がさまざまな比喩を繰り返してたどり着いた、一つの頂点なのかもしれません。(p.59−60)


インテリ源ちゃん絶賛とくれば、綿矢りさはその文体によって文学史に燦然と輝くことになるだろう。結構なことだ。さらに高橋氏は、「小説のOSを更新する」という表現によって、近代文学が新たな段階に入ったことを示唆している。やれやれ、文学史の晩年か。


晩年のスタイル

晩年のスタイル


高橋源一郎は、サイード著・大橋洋一訳『晩年のスタイル』(岩波書店, 2007)を引用し、晩年を迎えた芸術家が円熟や成熟を拒否する例をあげている。ベートヴェンやリヒャルト・シュトラウスについてサイードの記述に触れている。触発されるかたちで、耕治人『そうかもしれない』にたどりつく。


そうかもしれない

そうかもしれない


太宰治志賀直哉とは、普通は全く異なる作風、文体であり、相容れない正反対の作家というイメージがあるが、高橋源一郎によれば、


そこには、「はじまり」があり、「成長」があります。故郷があり、風土があり、空気があり、肉体があります。というか、彼らの小説は、表面上は少しも似ていないのに、それを書いたふたりの作家は、同じなにかを信じているように、わたしには思えるのです。(p.189)


と正反対の作家も同じ共同体のなかに生きているという。さらに、晩年ブレイクした耕治人も、同じ共同体の一員であるという。つまり、同じOSで書いた作家たちということになる。


更新されたOSで書いているのが、中原昌也であり、次の共同体の兆し・・・か。


待望の短篇集は忘却の彼方に

待望の短篇集は忘却の彼方に


高橋源一郎『大人にはわからない日本文学史』からは、文体、比喩、文学史など、日本の近代文学についていくつか考えさせられた。