龍樹『中論』(2)


黒崎宏『ウィトゲンシュタインから龍樹へ 私説「中論」』*1について、昨日に続き引用から始める。


第十二章  苦の考察

いかなるものにも「作られる」という事は成立しないのである。・・・
いかなるものにも「生じる」ということは成立しない、・・・
すべてのものの間には、「縁起の関係」が成り立っている。そしてこの「縁起の関係」が、
「作られる」とか、「生じる」とかいう関係と両立できないのである。(p109)

第十三章  <形成されたもの>(行)の考察

空というものは存在しない。空とはもののありようなのである。
・・・
「空見」とは、「一切は空である」という主張である。しかしそう主張すると、却って<空>に囚われてしまう。(p115)

第十五章  <それ自体>(自性)の考察

常住に執着することなく、断滅にも執着することのない者には、<有る>(存在する)ということも<無い>(存在しない)ということもない。「一切は空」なのである。
(p124)

第十六章  束縛と解脱の考察

いかなる輪廻(生死)、いかなるニルヴァーナも、考えられない。そして、囚われを有しない人においては、そうであらねばならないのだ、と思う。
(p128)

第十七章  行為(業)と果報の考察

結論的には、煩悩(煩悩を本質とする業)、(そのような業と煩悩を縁とする)身体、(そのような業の)報い、これらすべては蜃気楼のようであり、陽炎や夢に似ている、というのである。(p141)

第二十一章  生成と壊滅の考察

21 このように、三つの時(前世(過去)・現世(現在)・来世(未来))にわたって生存が連続する、というのは正しくない(理に合わない)。そして、そうであるとすれば、どうして(そもそも)三つの時にわたっての<生存の連続>が存在しうるであろうか。(存在しえない。)
輪廻は存在しないのである。(p165)

第二十二章  如来の考察

如来は本質を持たない。そして、この世界もまた、有為の世界も無為の世界もともに本質をもたないのである。ここで私は再び、後期ウィトゲンシュタインの「反本質主義」(本質主義批判)を思い出す。そして、それを可能にするのが、後期ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」なのである。「言語ゲームの世界」こそ、すべてのものの無自性(空性)を可能にする唯一の世界であろう。(p175)

第二十五章  ニルヴァーナ(涅槃)の考察

<不得><不捨><不常><不断><不生><不滅>、これがニルヴァーナなのである。(p198)
・・・・・
『中論』を一応最後まで読んできて、自然と私に思い浮かぶことは、『中論』には二つの原理が貫いている、ということである。その一つは「縁起」の原理であり、もう一は「<去るもの>は去らない」という原理である。前者は、「一切は意味的に含みあっている」という原理であり、後者は、「事柄は二重におきることはない」という原理である。この後者は、「一重の原理」と言われてもよいであろう。すなわち、『中論』には「縁起の原理」と「一重の原理」が貫いているのではないか。そして「縁起の原理」は、「不一不異」と「不常不断」を可能にし、「一重の原理」は、「不去不来」と「不生不滅」を可能にするのではないか。・・・(中略)・・・
そして、後期ウィトゲンシュタインの意味論が「縁起の原理」をサポートしているのである。(p205)


論理哲学論考』(大修館書店)*2は通読しているが、後期の『哲学探究』は未読であり、「言語ゲーム」というウィトゲンシュタインの思考について、言及することは困難だ。しかし、『中論』の核心は得られたように思う。


私流に解釈すれば、龍樹は、実体を否定し、すべてのものは現実には存在せず、単に言葉によるものであるということ。つまり、一切は「空」にすぎない、そして、「縁起」と「一重」による意味的関係にほかならない。


「悟達」にいたる道を探求することが、私の読書の究極の目的なのだから、『般若心経』*3や『中論』は、大いなる導きの書であることを確認できた嬉しい出会いであった。