ウィトゲンシュタインから龍樹へ
先週の日曜日(10月10日)の朝日新聞の宮崎哲弥の書評、黒崎宏『ウィトゲンシュタインから龍樹へ 私説「中論」』(哲学書房)*1を読み、強烈なインパクトを受ける。
「朝日コム」http://book.asahi.com/review/index.php?info=d&no=6805より引用する。
仏教の悟りとは何だろうか。悟りとは一般に、禅定(ぜんじょう)に入って得られる言語を超えた境地とされている。
しかし「言語を超える」とはどういうことか。修行者がヨーガや禅といった心身技法を通じて、日常的な言葉や意味の「外部」を体感したとしても、それを意味づけるのは依然として言葉である。その解釈が誤っていれば、結局言語に囚(とら)われたままの、悟りとは程遠い心境に留(とど)まる。そう考えると、禅定で得られる経験もまた方便に過ぎないことがわかる。
・・・・・(中略)・・・
本書は『中論』の註釈(ちゅうしゃく)書の最新である。『中論』の註釈書といえば、月称(チャンドラキールティ)の『プラサンナパダー』をはじめ、様々な立場から数多く著されてきた。本書では、何とウィトゲンシュタイン研究の第一人者が、言語ゲーム論の視座から『中論』を読み解く。言語ゲーム論とは「一切を、心的なものも物的なものも、言語的存在と看做(みな)す」立場である。著者は、これが世界の非実体性、即(すなわ)ち、空=縁起を説く『中論』の世界像に直結するという。
西洋の哲学を専門としながら『中論』を論じた学者はいままでもいた。本書の凄(すご)さは、(付加的に小乗の教えを説明した26章、27章を除く)すべての偈が掲げられ、それらに註解が施してある点だ。手前勝手な釈義ではない。出典が明記され、仏教学の通説とは異なる読みが示される場合にはその旨、特筆されている。 現代言語哲学を媒介として、仏教の悟りに肉迫する。仏教者に限らず、哲学的な思索が好きな人なら、一度は挑んでみたい高峰ではあるまいか。
[評者]宮崎哲弥(評論家)
この書評を読み、早速、近くの書店に行くが、在庫がない。オンライン書店をチェックしたが、J書店のみ「在庫あり」の表示があり、早速注文するが、店頭品切れ、版元へ注文となる。で、やっと、本日手元に届く。
黒崎氏は、「はじめに」のなかで、
ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」の核心は、すべてのもの一切を、心的なものもおしなべて、言語的存在とみなす、ということである。
と書き、また、いきなり「おわりに」を引用して恐縮だが、
<悟り>の世界とは、「縁起に身を任せる世界」だ、「縁起と一枚になる世界」だ、という事になる。それは、縁起による生滅に対して、更に生滅を言わない世界であり、更に生滅を思わない<無心の世界>なのである。「言わない」は即ち「思わない」であるから。そして、この世界ー<無心の世界>−こそ「自受用三昧の世界」ではなか。 (p207)
・・・・・・(中略)・・・
このことは、「それは、縁起による生滅に対して、更に生滅を言わない世界であり、更に生滅を思わない<無心の世界>なのである」というところに、見てとれるであろう。
(p208)
中村元の『龍樹』の「真実に存在するものはなく、すべては言葉にすぎない」という解説に触発されて、黒崎氏は、『中論』に挑戦したわけだ。
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『大乗仏典』にも収録されている『中論』が、にわかに、オーラを発しているように思えた。これが、「縁」による出会いかも知れない。もともと『般若心経』に関心を持っていたので、「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是」に通じる世界、しかも、ウィトゲンシュタインの研究者が二十五章の偈(げ)を読み解くというのだから、惹かれないわけがない。
「アフォリズム」という表現方法が、『中論』とウィトゲンシュタインの共通点といえるのかも知れない。ともあれ、この出会いを大切にしたい。
《関連図書》
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