坪内祐三は、シブく古くさいエッセイストとして出発し、少年時代に回帰した

 #坪内祐三

玉電松原物語


坪内祐三の最後の連載もの「玉電松原物語」が2019年『小説新潮』五月号からであり、2020年1月突然の死によって中断された。
今回、遺作として『玉電松原物語』が、新潮社から発売された。現物を入手。

 

玉電松原物語

玉電松原物語

 

 いまひとつは、文春連載「文庫本を狙え!」の『文庫本宝船』(本の雑誌社,2016)出版以降の連載分をまとめた『文庫本千秋楽』は、11月に刊行予定になっている。

 

玉電松原物語』は、坪内氏の実家にちかい玉電松原駅周辺の商店街と、坪内氏の記憶に関わる物語だ。既に「世田谷線」に変更されて残る松原駅付近の地図が図版として冒頭に掲載されている。ほぼすべては、坪内氏の記憶によって紡がれている。

昭和の玉電松原にまつわる記憶、記憶、記憶。恐るべき記憶力によって復元される、坪内少年時代の記憶。果たして、この作品は何なのだろうか。

第一章から引用する。

東京で生まれ東京で育った私ではあるが、自分のことを「東京っ子」とは言い切れぬ思いがある。
具体的に言えば私は昭和三十三(一九五八)年に初台(区としては渋谷区だが一番近い繁華街は新宿)に生まれ、同三十六年に世田谷区赤堤に引っ越した。
つまり山手線の内側はおろか環状七号線の内側にも暮らしていなかったのだ。
だから「東京っ子」を自称するのはサギめいている気がする。
と言うと、山手線はともかく、初台は環七の内側にあるじゃないか、という突っ込みを入れる人もいるかもしれない。しかし環七が作られたのは昭和三十九年に開催された東京オリンピックに合わせてで、私が初台に暮らしている頃はまだ影も形もなかったのだ(私はこの原稿を環七に隣接したマンションの一室にある仕事場で書いている)。
赤堤に越して来た時に私が憶えているのは、ずいぶん辺鄙な場所だなということだ。(10頁)
《中略》
そういう辺鄙な場所にあっても、私の家から歩いて七~八分(子供の足でも十分)ぐらいの所に商店街があった。
それは電車の駅があったからだ。電車といってもいわゆるチンチン電車で東急玉川線(通称玉電)の松原駅だ。
玉電は本線が渋谷から二子玉川まで走っていて、砧緑地まで行く支線と、下高井戸、三軒茶屋間を走る支線が通っていて、昭和四十四(一九六九)年に本線と砧緑地までの支線が廃線となってのち、下高井戸、三軒茶屋間は世田谷線となった。
だから玉電松原という駅はただの松原駅となった。
だが私の中で松原は永遠に(ということは今でも)玉電松原だ。
その玉電松原界隈のことをこれから書きつづって行きたい。
小さいとは言え確かな商店街があった町のことを。(11~12頁)
《中略》
私のことを、東京っ子を鼻にかけると思っている人がいる。
だが私は東京っ子ではなく世田谷っ子だ。
しかも世間の人が思っている世田谷っ子ではない。
世田谷は高級住宅地だと思われていて、実際、今の世田谷はそうかもしれないが、私が引っ越して来た当時の世田谷、特に赤堤界隈は少しも高級でなかった。もちろん低級でもない。つまり、田舎だった。(26頁)

 

 

こんな感じで進んで行く、私小説のようなエッセイ風自伝になっている。

この内容は、坪内祐三に関心がない人、あるいは世田谷にも関心がない人には、どうでもいい話だろう。

スーパー「オオゼキ」、古本屋「遠藤書店」、切手ブーム、少年時代に食べた食堂の食べ物、広場での野球こと、レコード収集、映画の話などなど。

子どもにはよく分からない「ハマユウ」と「整美楽」の謎まで、私小説風に続く。

坪内祐三の昭和」は、つねに著者の根底にある郷愁かもしれない。

本書の中に、同じような内容の「小説」を『新潮』に応募したことがあった、と告白している。
どうしても、書きたかった自身の<核>だったのかもしれない。10回分で切れているが、これはこれで終わりと見做してもいいだろう。

 

それにしても、61年間の疾走ぶりに、敬服する。編集者・評論家としての活躍は、30年余り、人生の半分だろうか。少年時代は、本書『玉電松原物語』に記録された。高校・大学時代からは、坪内氏が書いた様々なエッセイに断片的に散りばめられている。ほぼ生涯を記録として残したことになる。このようなエッセイストは、稀有な存在である。

人は死して、書物を残すことを身をもって実践されたひとだ。

 

 

本の雑誌の坪内祐三

本の雑誌の坪内祐三

  • 作者:坪内祐三
  • 発売日: 2020/06/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

本の雑誌坪内祐三』の「角川春樹ロングインタビュー」を読んでいると、角川春樹坪内祐三に向かって「しかしあなたはよく知ってるねえ」だの「よくもご存じ、あなたはやっぱりすごいね」だのと誉め言葉を贈っている。坪内祐三角川書店の翻訳本の動きや、横溝正史ブームを作る前からの状況を知っていてインタビューしていることに角川氏は驚きを隠せない。角川春樹による、戦略的手法を駆使した剛腕編集者だったことが、このインタビューによって明かされたわけだ。見事なインタビューと言うほかない。

 

饗庭篁村 (明治の文学)

饗庭篁村 (明治の文学)

  • 作者:饗庭 篁村
  • 発売日: 2003/04/01
  • メディア: 単行本
 

 

坪内祐三の最大の功績は、何だろうかと考える。私的には、坪内祐三編集『明治の文学』(筑摩書房)全25巻になるだろう。画期的な文学全集となった。明治を現代に引き寄せた。

総ルビ、脚注や脚注図版を数多く掲載することで、当該作家に関する解説となっている。同時に、明治時代の文化状況を顕在化させた功績は大きい。後世に残るのは、『明治の文学』全25巻と確信する。

とりわけ、坪内祐三自身が編者となっている饗庭篁村だろう。ほとんど名前も知らない(当時)作家が、一人一冊で刊行されたことの驚き。『広津柳浪』(村松友視編)と『山田美妙』(嵐山光三郎編)を加えてもいい。実に、驚嘆すべき『明治の文学』だった。

饗庭篁村』には、創作と紀行・随筆が採録されている。読む楽しみを味わうことができるのは、随筆だ。例をあげてみよう。随筆「粋と通」から。

さて結論とでもいふのですが、其所を一番、式亭三馬の言葉拝借することにしませう。
「『粋』と『通』とは、ブウといふ屁の如し・・・・。」
罵り尽くせば、粋と通も、こんなものでせうね。

(342頁『明治の文学第13巻 饗庭篁村』)

と締めくくっている。粋だの通だのといっても、所詮はこんなものさ、という開き直りである。痛快痛快。

坪内祐三編集『明治の文学』 は、今では企画すら通らない出版状況といえよう。こ のような企画で出版が可能であった最後の時代の産物だ。坪内祐三の功績は大きい。

 

山田美妙 (明治の文学)

山田美妙 (明治の文学)

  • 作者:山田 美妙
  • 発売日: 2001/04/01
  • メディア: 単行本
 

 

 

広津柳浪 (明治の文学)

広津柳浪 (明治の文学)

  • 作者:広津 柳浪
  • 発売日: 2001/10/01
  • メディア: 単行本
 

 【余録】

現在、角川春樹最後の監督作品『みをつくし料理帖』が公開されている。先日見てきたが、角川春樹が育てた作家・高田郁への信頼ぶりが伺える内容だった。かつての角川映画の出演者(石坂浩二薬師丸ひろ子等多数)が勢ぞろいの豪華キャストだった。

坪内氏による「角川春樹ロングインタビュー」で「もう一度野生を取り戻す」と宣言した角川氏は、対談から5年が経過し、角川春樹監督映画として野生的実践がなされている。坪内氏はその映画を視ることができないのが残念ではあるが。

 

さて、遺作『玉電松原物語』が刊行されたことで、坪内祐三氏の著作による円環的構造が可視化され、視えるようになった。
あとは、次の『文庫本千秋楽』が「本の雑誌社」から11月下旬刊行を待ちたい。

 

文庫本千秋楽

文庫本千秋楽

  • 作者:坪内祐三
  • 発売日: 2020/11/20
  • メディア: 単行本