古井由吉の作品が預言になっていることに驚く
#古井由吉
われもまた天に
古井由吉氏の遺作『われもまた天に』(新潮社,2020)を読む。
「雛の春」「われもまた天に」「雨あがりの出立」「遺稿」の四編から成る。
冒頭の「雛の春」は、入院の話から始まり、退院までの短い期間。病院でのやや不思議な現象について記される。
天候の話から、かつて居住した新潟での雪の話などなど、気分の赴くまま気ままに書いているよう視える。
「われもまた天に」は、中国の明の時代、李挺のことばを引用して、
-吾のいまだ中気を受けて以って生まれざる前、すなはち心は天に在りて、五行の運用を為せり。
吾のすでに中気を受けて生まるる後、すなはち心は天は、吾の心に在りて、五事の主宰を為せり。
このことばを巡り、作者は思考をめぐらす。
「雨あがりの出立」では、作者の家族の死にまつわる話を書きながら、葬送の在り方の不思議さに言及している。
次兄の死にまつわる話から、身内の死について、自分の両親や兄二人と姉の死に際しての、それぞれの対応の差異に関して触れている。
-其雨其雨 果果出日
それ雨降れ、それ雨降れというに、果果(こうこう)として出づる日、と読みくだす。
『詩経』からの引用。退院をするも、真夏日が続く。寝苦しい夜が続く。台風が来る。
2019年夏の猛暑など、日常の生活の中に自身の終戦前後の体験が回想される。
巻末には「遺稿」として、著者の没後に『新潮』に掲載された原稿をそのまま、『われもまた天に』に収録された。
雑誌への掲載は、著者の意思でもある。従って、最後の作品集として本書が刊行されたことも著者の意思と見做していいだろう。
災害や災禍が古井由吉の先祖が住んだ地域などにも触れて、最後の一行にたどり着く。
(未完)と記されたその直前の一行が深い。
自分が何処の何者であるかは、先祖たちに起こった災厄を我身内に負うことではないか。(139頁)
富岡浩一郎『古井由吉論』(アーツアンドクラフト,2020)には、著者と古井由吉の対談が二編収録されている。
一編は古井由吉が『仮往生伝試文』刊行時の対談であり、「フィクションらしくないところから嘘をついてみようか」と題されている。
そこで古井由吉は、「今の世のフィクションというのがどんなあんばいになっているのかなと嗅ぎ分けようとすればするほど、混乱あるのみ」と、富岡氏の「フィクションに対する違和感」の問に回答している。
2019年9月の対談で古井由吉は
小説の恐ろしいのはね、後から見ればどこかで預言のようなことをしているところにあるんです。(207頁)
と述べている。また、災害や津波について、
先人たちは圧倒的な自然の脅威のもとで生きてきた。洪水でも干ばつでも繰り返しさらされてきた。それから、疫病がある。そのなかを先祖たちは生きてきた。・・・我々はしぶとく生き長らえた人間たちの末裔だもの。(210頁)
と、古井由吉氏没後の、新型コロナウイルスによる疫病を預言していることに驚く。
古井由吉氏が、平野啓一郎の「自分の死後、若い人が何か1冊本を読もうという時に、自分のどの作品を読んでほしいですか」と僕(平野氏)は作家にこの質問をしていた。古井由吉の選んだ三作とは、
『辻』(2006年)
『白暗淵(しろわだ)』(2007年)
『やすらい花』(2010年)
の三作であったという。
未読図書が多い古井由吉の小説。『やすらい花』から「生垣の女たち」を読む。
独居老人のもとに若者男女が下宿する。死を前に生きる老人の心境。駆け落ちと誤解された男女の同棲。
書く、読む、生きる
古井由吉・単行本未収録の講演・エッセイ等、没後二冊目の『書く、読む、生きる』(草思社,2020)が11月26日に刊行された。早速、入手。冒頭の講演録などを読む。
古井由吉が、ドイツ文学の翻訳から「ことば」を、小説として表現する作家に転身したことなど、経歴が語り口調で説明される。日本語は、漢字という表意文字を持つとして、「読むこと、書くこと」の中で、次のように語っている。
最初にあったイメージから、いわゆる言説、言論までの距離は、われわれが考えているよりももっと長くて、緊張を要する道のり、のはずなんです。/本来のわれわれは、もっと漢字の意味に抱きとられ、抱きとられながら展開していくというような、幸せな位置にあったんだけれど、漢字に対する感覚も弱っていたし、漢籍その他に対する教養も少なくなった。・・・(中略)・・・そのうちに西洋式の言語が行き詰まって、日本の、極端にいえば象形文字の要素がある、こういう文章、こういうものの考え方に興味をしめしだすかもしれない。(28頁)
言葉、日本語についての貴重な暗示となっている。
とりあえず、未読の『辻』『白暗淵』『やすらい花』を読もう。