黒船前夜


渡辺京二が、『逝きし世の面影』(葦書房、1998・平凡社ライブラリ、2005)において幕末・明治初期に、外国人から見た記録をもとに前近代の<江戸文明>というべき財産を描いて、いまなお読み継がれている。


黒船前夜 ~ロシア・アイヌ・日本の三国志

黒船前夜 ~ロシア・アイヌ・日本の三国志


その続篇にあたるのが『黒船前夜‐ロシア・アイヌ・日本の三国志』(洋泉社、2010.2)で、時代を江戸中期あたりまで遡行し、ロシアが東アジアから日本へ交易を求めてくる過程を、蝦夷(北海道)やアイヌ民族などの生態を交えて、外国人の見た日本・アイヌという視点で書かれている。


逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)


本書を読み始めた時点では、著書の意図がよくみえない。『逝きし世の面影』は、外国人の見た幕末・明治初期の日本人たちの心の豊かさにあることは冒頭から明確にされていた。『黒船前夜』が続篇だとすれば、当然同じスタイルを取るだろう。たしかに、引用は主として外国人の目から見たアイヌ蝦夷地や松前藩の武士や庶民なのだが、江戸中期へ遡及する理由が視えないのだ。ところが、第九章「レザーノフの報復」に至り、著者がなぜロシアとの北方交流に固執したのかが分かってくる。その箇所を引用する。


国際社会に対するにはあまりに弱体な日本近世国家のありかたを嘲笑したり悲憤したりするのは、果たして21世紀のあるべき文明を模索する私たちにふさわしい態度だろうか。徳川国家は初めは強大な軍事力を有する武士集団が支配する兵営国家として出発しながら、19世紀初頭には、武力紛争をできるだけ回避し、平和な談合による解決を重んじる心性が上下ともに浸透する社会を作り出していた。これが恥ずべき事実であるはずがない。(p.268)

フヴォストフらの蝦夷地襲撃が幕府の一角に開国論と日露同盟論を擡頭せしめた事実は、この国のその後の成り行きと思い合わせるとき、何といってもスリリングではなかろうか。もしこのときロシアと国交を開始していれば、あとには当然欧米列強が続いただろう。・・・・列強の砲艦外交はまだ始まっていない。すなわち、日本はこのとき、幕府主導の開国というもうひとつの近代化の可能性を喪ったのだ。(p.272)


渡辺氏の視点は、世界史的な眼で近代化というものが何であったかを、検証するもので、あり得たかも知れないもうひとつの近代化について模索しているのだ。


逝きし世の面影 (日本近代素描 (1))

逝きし世の面影 (日本近代素描 (1))


『逝きし世の面影』では幕末・明治初期の江戸庶民の人間のありかたとして自然と調和し、理想的な共同体を構築していたことを、外国人の記録から証明したように、『黒船前夜』ではアイヌ民族に一種賛辞のことばが記録されていることを示した。

アイヌ接触したクルーゼンシュテルンも彼らの魅力の虜となった一人である。彼はいう。「アイノ(ヌ)人個人の特性は心のよさであり親切である。彼らの容貌また手足の動静さえも、何か内に素朴なる貴いものをつつんでいることを示すようである」。彼はアイヌの家族の中に「最も幸福な調和、あるいはほとんど完全なる平等を認めた」。・・・「・・・さらに驚くべき事は、実に彼らの節制の徳であった。彼等は決して何ものを要求せず、また彼等に与えられたものをさえ多少の疑いをなしつつ受納する」。(p.350)

クルーゼンシュテルンアイヌの「これらの真に稀有なる性質」が、何らかの文化的洗練のせいではなくて、「全く単に彼等の自然のままの性格の刻印」であるように感じた。そして「アイノ(ヌ)人を以て予が今まで知ったすべての民族中最良のものであると考えるに至った」。家族全員の平等と和合、物欲の薄さ等々、見るところは日本人幕吏と一致する。その徳目はまさにアイヌがまだ国家という人間の組織形態を知らぬところから生じた。そして、彼等はまたそのためにこそ衰亡の運命をとどらねばならなかった。だが、衰亡というのも国家の枠組からそう見えるだけのことかも知れない。(pp.350-351)


どうやら、渡辺京二氏が長々と「ロシア・アイヌ・日本の三国志」を書いたのは、このあたりに理由があるように思えるのだ。第1章「はんべんごろうの警告」から第8章「レザーノフの長崎来航」までは、壮大な序章であった。続く第10章「ゴローヴニン幽囚」は江戸後期・日本人の最良の部分を描いて秀逸である。


江戸という幻景

江戸という幻景


渡辺氏の『逝きし世の面影』とそれに続く『江戸という幻景』(弦書房、2004)『日本近世の起源』(洋泉社、2008)を読めば、本書は、渡辺氏の志向する「もう一つの近代」あるいは「可能性としての近代」がどこにあるのかを探究する過程での作品だということが分かる。できれば、明治から昭和前期に至る過程も、渡辺氏の眼で再検証して欲しいと願う。
渡辺氏のいう「列強の砲艦外交」と同様の方法で、なぜ豊潤な江戸文明の滅亡と引き換えに、日本が近代化をなさざるを得なかったのか。もう一つの近代化を可能性として記述することは、21世紀のこの国のあり方と方向性を示すことに繋がると思える。


なぜいま人類史か (洋泉社MC新書)

なぜいま人類史か (洋泉社MC新書)


【追記】2010年2月21日

小生は葦書房版『逝きし世の面影』と平凡社ライブラリ版の双方を持っているが、葦書房版は2002年8月発行第9版のもので、出版社のHPによれば第10版までは増刷したが、現在は絶版になっている。著者の「平凡社ライブラリ版あとがき」と平川祐弘氏の解説を読むために平凡社版を購入したものである。本文だけでも580頁あり、内容の概略だけでも知りたい場合は、『なぜいま人類史か』(洋泉社、2007)の「第3章 外国人が見た幕末維新」が講演記録で、『逝きし世の面影』を書く契機となったものであり、先行する要約になっている。しかし『逝きし世の面影』未読の方は、要約ではなく、直接本文を読まれることをお薦めする。「共感は理解の最良の方法」と平川氏も述べている。今回、『黒船前夜』を発売後、直ちに買い求め一気に読んだのは、『逝きし世の面影』の読後感に清々しさと共感・感銘を覚えたからにほかならない。

渡辺京二氏は知る人ぞ知る熊本在住の思想史家で、石牟礼道子さんを発見した人でもある。優れた思想家であり、『逝きし世の面影』→『黒船前夜』と読みすすむことで理解が深まると思う。



【補記】第37回大佛次郎賞・受賞(2010年12月21日)


渡辺京二氏の『黒船前夜』が、大佛次郎賞を受賞した。「朝日新聞」12月21日付大阪板の朝刊にて知る。大佛次郎賞は、過去の受賞者をみればきわめて評価の高い賞であることがわかる。

第1回の中野好夫 『蘆花徳冨健次郎』全3巻(筑摩書房)を始め、第4回は、丸山眞男『戦中と戦後の間』(みすず書房)、第7回、加藤周一『日本文学史序説( 上・下)』(筑摩書房)、第9回、鶴見俊輔『戦時期日本の精神史』(岩波書店)、第10回、大江健三郎『新しい人よ眼ざめよ』(講談社)、第15回が司馬遼太郎『韃靼疾風録( 上・下 )』(中央公論社)、第23回・山口昌男『「敗者」の精神史』(岩波書店)、第30回には、山本義隆『磁力と重力の発見』全3巻(みすず書房)が受賞している。

最近では、今年映画化され話題となった第34回の吉田修一『悪人』(朝日新聞社)、昨年の第36回は、石川九楊 『近代書史』(名古屋大学出版会)であった。

渡辺氏の在野における地味な仕事が評価されたことは、喜ばしいことだ。