ヴンダーカンマーの謎


小宮正安『愉悦の蒐集 ヴンダーカンマーの謎』(集英社新書、2007.9)を店頭でみて、はらぱら頁をめくりながら中の図版をみると既視感にとらわれた。もちろん、高山宏の著書『魔の王が見る』(ありな書房、1994.6)の第1章「ヴンダーカンマー」であり、『表象の芸術工学』(工作舎、2002.9)の第2部、Lecture2の3「『驚異の部屋』の愉悦よ永遠に」で、「ヴンダーカンマー」(驚異の部屋)を歴史的文脈において、捉えられていたことについてである。


愉悦の蒐集 ヴンダーカンマーの謎 <ヴィジュアル版> (集英社新書)

愉悦の蒐集 ヴンダーカンマーの謎 <ヴィジュアル版> (集英社新書)


小宮正安が取材旅行をして、愉悦のうちに書かれたことは了解できる。しかしながら、高山氏が既に、「ヴンダーカンマー」を<蒐集する>という近代化過程の兆しとみている。

ある分断の危機に対処するため、<すべて>を集めながら、集めるほどに自らの認識と範疇化の知力の限界を知っていくというたいへん逆説的な構造こそがバロックであり、大小数千の「驚異の部屋」はまさにその可視化された象徴的存在だったはずである。この自らの限界にとまどう精神史的に貴重な<みじろぎ>の部分を抑圧したとき、近代分類学バロックの中から離陸する。1750年代のことである。「好奇心に対する調教」が始まった、とポミアンが言っているのが、その事態である。集めることが分ける/分かることのヒエラルヒー的快楽へと精緻化せざるをえない人間理性のまがまがしい進化論的過程が始まる。(『魔の王が見る』p.25)


魔の王が見る―バロック的想像力

魔の王が見る―バロック的想像力


また、高山氏は次のように説明している。

ヴンダーカンマー(Wunderkammer)は、「驚異の部屋」あるいは「驚異博物館」などと訳され、ルドルフ2世とヴンダーカンマーについては何冊かの本が今では翻訳で読めます。・・・(中略)・・・ヴンダーカンマーの歴史、マニエリスムバロックの歴史も終わり、ここから先が合理主義の時代というわけです。部屋いっぱいごちゃごちゃしていた物が、いつのまにか箱に入れられ、テーブルに並べられていく。カタログはそうしたすべての物が、遠近法を使って誇らしげに描かれている。整理整頓のオーダー感覚が一貫しだした。マニエリスムから合理へというわけです。(『表象の芸術工学』p.225−227)


表象の芸術工学 (神戸芸術工科大学レクチャーシリーズ)

表象の芸術工学 (神戸芸術工科大学レクチャーシリーズ)


『魔の王が見る』にも『表象の芸術工学』にも、「ヴンダーカンマー」の図版が大量に掲載されている。小宮正安の著書は、ヴンダーカンマーについて実際に見てきて、写真におさめたり、驚異の博物について、あれこれ説明を加えているが、それが<愉悦>のうちに収まってしまっているのだ。歴史的文脈から切り離してヴンダーカンマーを視てもさほど、面白ものではない。高山氏は、それらの博物が分類され整理され合理的に配列されることになる「近代」を問題にしているのだ。


カステロフィリア―記憶・建築・ピラネージ (叢書メラヴィリア)

カステロフィリア―記憶・建築・ピラネージ (叢書メラヴィリア)


図版の驚異でいえば、高山宏『終末のオルガノン』(作品社、1994.8)、『痙攣する地獄』(作品社、1995.4)、『カステロフィリア』(作品社、1996.5)の三冊、つまり『超人 高山宏のつくりかた』の「編工卓越」141頁の左端に掲載されている三冊の本が、まさしく作品社発行の画文一致の三部作になっている。


超人高山宏のつくりかた (NTT出版ライブラリーレゾナント)

超人高山宏のつくりかた (NTT出版ライブラリーレゾナント)


『終末のオルガノン』の冒頭に置かれた「「構造」はテーブルする」は、近代合理性とテーブルがいかに分かちがたいかを証明している。

テーブルは、混沌を構造化・秩序化する一文化の身振りのこの上ない象徴なのである。・・・(中略)・・・集め、秩序化するとは、即ちこれ権力の構造そのものであろう。絶対主義の成立、ファミリー観念の成立を図像化して十七・十八世紀に大流行した一族団欒図、集合的肖像画、言うところのカンヴァセーション・ピシーズ*1で、テーブルが中心的な役割をはたすのも、こうしたメカニズムがあるからである。集め、秩序化するとは博物学の営みにも他なるまい。博物館や図鑑は、かつての静物画においてテーブルが占めたと同じ、世界の「構造化」の役割を占めるだろう。(『終末のオルガノン』p.15−17)


終末のオルガノン (Fantasmal (1))

終末のオルガノン (Fantasmal (1))


集め、秩序化するとは「ヴンダーカンマー」が行き着くところ、つまり近代である。小宮正安の著書の巻末参考文献に、高山宏の著作が一点もあげられていないことが、この本の位相をいみじくも示している。


*1:ヴィンコンティの傑作『家族の肖像』の原題が、「Conversation Piece」であったことはつとに指摘されている。