日本語が亡びるとき


梅田望夫氏がブログで取り上げたからというわけではなく、漱石の続編『続明暗』(筑摩書房、1990)が旧字・旧かな文字によって書かれて以来、『私小説』(新潮社、1995)、辻邦生との往復書簡共著『手紙、栞を添えて 』(朝日新聞社、1998)、『本格小説』(新潮社、2002)を発売のたびに読んできた。著者・水村美苗の体験を踏まえた『日本語が亡びるとき』(筑摩書房、2008)は、21世紀というネットの時代だからこそ、真摯にうけとめるべき秀逸な日本語論となっている。


日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で


水村美苗について少なくとも『本格小説』までは、アメリカ滞在の長さを経歴として持つ特異な小説家としかみていなかった。『日本語が亡びるとき』によって、著者は優れて論理的発想をするひとであり、言葉・言語の持つ意味について、根底的に考察していることが解かった。


本格小説 上

本格小説 上

本格小説 下

本格小説 下


著者によれば、言語は「現地語」「国語」「普遍語」の階層を持ち、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』の国民国家の成立を背景として成立する国民文学を援用しながら、日本には国民文学としての「国語」を用いた近代日本文学という遺産があったという。



国民文学が成立するのは、「出版語」としての「国語」が機能してはじめて可能であり、日本の近代化とはまさしく、漱石・鴎外・四迷・荷風・谷崎などの優れた文学者を輩出し得たところにある。近代文学者たちは、フランス語・ドイツ語・英語などヨーロッパの「普遍語」を読む二重言語者であった。「普遍語」とは中世におけるラテン語、18−19世紀においてフランス語が担った言語であり、今日では申すまでもなく、「英語」が「普遍語」になっているのは周知の事実だろう。著者は、「普遍語」としての英語教育の必要性を説きながらも、むしろ、日本語が「国語」として機能しつづけることが大切であると考えている。そのためには、日本近代文学の作品を国語の教科書に採用し、読みつがれて行くことの必要性に言及している。


続 明暗

続 明暗


私は、近代日本文学は既に終わっているという認識であり、近代文学の作品を<読まれるべき言葉>とする水村氏の論理にに賛同したい。「英語の世紀」とは別言すれば英語帝国主義にほかならない。「英語」で話ができれば良いといったレベルの問題ではなく、英語を母語のように駆使する人たちが国政を担う*1べきだし、ビジネスの世界でもそうだろう。「英語の世紀」=「普遍語」という問題は、とりたてて大騒ぎすることもない。自然史のなかで、かつてのフランス語がそうであったように入れ替え可能だなどと呑気に言うつもりはないけれど。


手紙、栞を添えて

手紙、栞を添えて


本書の白眉は、第2章「パリでの話」であろう。フランス文学を専攻した著者が、パリで初めてフランス語による講演を行ったときのエピソードと講演内容である。フランス語が「普遍語」であった栄光の過去を語ると同時に、「ブリタニカ」の記述に「日本文学が最も主要な文学の一つ」と記載されていることの驚きに象徴される。日本文学が「主要な文学」との認識について水村氏は、「認識というものはしばしば途方もなく遅れて訪れる」と記しているのも印象的であった。


私小説 from left to right (新潮文庫)

私小説 from left to right (新潮文庫)

*1:だからと言って一国の首相が、簡単な漢字(踏襲・未曽有など)の読み間違いをするなど、言語道断であり、英語以前の問題であり、総理に必要な基礎的知識すら備えていないことの証明だ。祖父に吉田茂、その長男が英文学者・吉田健一であり叔父にあたることを思うと、マンガを読むことを自慢する麻生なる人物は首相失格であろう。