日本語で読むということ


以上の文を書いたところで、二冊目の『日本語で読むということ』(筑摩書房、2009)も読了した。二冊を合わせて読むと、水村美苗という人の思考法や言語観が浮かび上がってくる。女性ならではの鋭い感覚。たんなる「女流文学者」とは一線を画する<小説家=評論家>である。環境が言語についてとぎすまされた感覚を育んだといえよう。


日本語で読むということ

日本語で読むということ


幸田文について次のように書いている。

幸田文のこの自由こそ、真の「女流作家」の自由ではないだろうかと。この自由こそ、当時文学の王道を行く「真名」(漢字)の禁忌を逆手にとって「仮名」で書き、日本語に初めて出会うことを可能にした平安朝の女たちの自由とつながるものだからである。実際、幸田文を読むとき、日本語に初めて出会ったような驚きなしには読めない。文学に育まれながら、それが自分に否定されていることによって、文学から離れて書かざるをえなかった幸田文だからこそ、あの「女流文学」の伝統を千年後に、そして最後に、日本語の中に花ひらかせたのだといえよう。(p.41「「大作家」と「女流作家」」『日本語で読むということ』)


的確な把握、しかも平安朝につながる幸田文の文体を高く評価する。近代文学に関する日本語のみならず、日本語の伝統を大切にしたいという強い思いが本書をつらぬく根底に存在している。それは、12歳から英語の世界に飛び込み、そのなかで日本語を読むという孤独な営為があったからこそ、今日の水村氏の力強い言葉へのこだわりがあるのだと感じさせるし、それ故、積極的に水村氏の思考や言語観に賛同したいと思う。


最後に水村氏の加藤周一への追悼のことばを引用して終わりたい。

英語の世紀に入った今、英語の世紀が続く今、私たちの日本語は、加藤周一のような人に、科学の道へ進まずに、そこへと帰っていきたいと思わせる言葉であり続けられるか。そこに自分の精神を刻みつけたいと思わせる言葉、その土壌こそを豊潤なものにしたいと思わせる言葉であり続けられるか。/この問いを問わねばならないのは、今、すべての非英語圏の人間の宿命である。(p.235『日本語で読むということ』)


日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で


日本語が亡びるとき』は、この二冊のエッセイや評論を書き続けたことの延長上にはじめて展望された、硬派の正統的日本語論だったのだ。