定本久生十蘭全集


久生十蘭『湖畔/ハムレット』(講談社文芸文庫、2005)の短編群には打ちのめされた。まず、華麗で精緻な彫琢された文体に魅せられる。現在の小説家では、とても表現できない語彙や技巧に満ち満ちている。また、作品内容が一作ごとに異なるのに、驚いた。直木賞受賞作家だが、これほどの資質を持っていたとは、うかつにも読まずに済ませてきたためだ。


湖畔・ハムレット 久生十蘭作品集 (講談社文芸文庫)

湖畔・ハムレット 久生十蘭作品集 (講談社文芸文庫)


文庫で入手可能なもう一冊、『日本探偵小説全集8久生十蘭』(創元推理文庫、1986)がある。「顎十郎捕物帳」ほか、文芸文庫と重複しない短編「昆虫図」「水草」「骨仏」三篇が収録されている。この二冊の短編を読む。




久生十蘭をこれまで読んでいないことを、この文庫二冊で後悔した。しかし、没後五十年記念出版として、ほぼ完璧に近い『定本 久生十蘭全集』がこの10月、国書刊行会から配本が始まったことで、あたかも新作に出会うかのごとく久生十蘭の小説を読むことができる僥倖を喜びたい。



定本久生十蘭全集 1

定本久生十蘭全集 1



第一巻が手元に届き、造本の素晴らしさや壮丁の美しさに感銘を受けているところだ。短編「つめる」「名犬」「天国地獄両面鏡」「黒い手帳」「お酒に釣られて崖を登る話」「花束町壱番地」の六編を読む。


まず「湖畔」の魅惑的な文体と書き出しの見事さについて語らねばならない。

この夏拠処ない事情があって、箱根芦ノ湖畔三ツ石の別荘で貴様の母を手にかけ、即日、東京検事局に自訴して出た。審理の結果、精神消耗と鑑定、不論罪の判決で放免されたが、その後、一月も経たぬに、端無くもまた刑の適用を受けねばならぬことになった。これは普通に秩序罪と言はれるもので、最悪の場合でも二年位の懲役ですむから、このたびも逸早く自首して刑の軽減を諮るのが至当であらうも、いまや自由にたいする烈々たる執着があり、一日といへども囹圄の中で消日するに耐えられぬによッて、思ひ切って失踪することにした。(p.279『定本久生十蘭全集 第1巻』)


あまりに有名な書き出しなので、ここに引きうつすことを控えるべきだろうが、敢えて引用する次第である。いきなり、これは何なのだ?という疑問とともに一気に物語に引き込まれる。あっとおどろく仕掛けと結末。久生十蘭を語る場合に欠くことのできない彫琢された文体である。


ハムレット」から冒頭を引用する。

敗戦後一年目のこの夏、三千七百尺の高地の避暑地の、ホテルやヴェランダや霧の夜の霧の夜の別荘の炉辺でよく話題にのぼる老人があった。それは輝くばかりの美しい白髪をいただき鶴のように清く痩せた、老年のゲエテ、リスト、パデレウスキなどのPhenottype(類型)に属する荘厳な容貌をもった六十歳ばかりの老人だが、このような霊性を帯びた深い表情が日本人の顔に発顕するのはごくまれなので、いったいどういう高い精神生活を送ったひとなのだろうと眼を見張らせずにはおかなかった。(p.52『湖畔/ハムレット』)


何とも魅惑的な出だしではないか。推理小説風仕立てなので、内容には触れないが、文体・スタイルの見事さには舌を巻く。久生十蘭のような文体に出会ったことがないせいだろうか。澁澤龍彦種村季弘など、文体に固有のスタイルを持つ文人がいるけれど、小説家としては、久生十蘭は稀有な存在である。


『全集第1巻』に初めて所収された「つめる」の冒頭はこうだ。

私のは妙な話ですが、ある娘と半年近く方々流れ歩いた末、東北のある町でどうしても別れなければならないといふ破目になりました。いろいろ考へて見ても、いまこゝで別れると、もう二度と再びこの世で廻り合ふといふ望みがない。(p.92『定本久生十蘭全集 第1巻』)


久生十蘭は、出会いが遅かった分、楽しみが多い。全集の第一巻をから長編「魔都」を、とりあえず読もう。


久生十蘭―『魔都』『十字街』解読

久生十蘭―『魔都』『十字街』解読