なにもかも小林秀雄に教わった


木田元『なにもかも小林秀雄に教わった』(文春新書、2008)を、タイトルに魅かれて購入した。


なにもかも小林秀雄に教わった (文春新書)

なにもかも小林秀雄に教わった (文春新書)


ほぼ同じ時期に発行された『哲学は人生の役に立つのか』(PHP新書、2008)は、80歳を迎えた著者の談話をもとにした著書だが、内容的に木田氏の人生履歴書の趣になっている。この二冊は、木田氏の青春時代から、なぜ「哲学」を目指すことになったのか、その根底にはハイデガー存在と時間』を読み解きたいがために、哲学を専攻し、それが生涯の仕事となったことが綴られる。


哲学は人生の役に立つのか (PHP新書)

哲学は人生の役に立つのか (PHP新書)


『なにもかも小林秀雄に教わった』は、「小林秀雄」に関する思考や論考でもなければ、もちろん「小林秀雄論」ではない。小林秀雄のあまりに著名な「様々なる意匠」から、

批評の対象が己れであると他人であるとは一つの事であって二つの事ではない。批評とは竟に己れの夢を懐疑的に語ることではないのか!(p.135「様々なる意匠」『小林秀雄全集第一巻』)

小林秀雄全集〈第1巻〉様々なる意匠・ランボオ

小林秀雄全集〈第1巻〉様々なる意匠・ランボオ


に倣えば、木田氏による小林秀雄とは、自己を語る対象であることになろう。本書では、小林秀雄のみならず、むしろ、ハイデガーを対象とするに至る過程で、多くの哲学者や作家、音楽家などに出会うことによって自己形成されて行く。その契機が小林秀雄であるとタイトルから暗示をうけそうだが、実際は、ドストエフスキーでありキルケゴールにほかならないことが、『哲学は人生の役に立つのか』を併読するとわかる。


だから「なにもかも小林秀雄に教わった」というのは、木田氏の事後的解釈である。たしかに世代的には、小林秀雄世代であるが、また、同時に戦後文学世代であることも、告白している。木田氏の「一つの事であって二つの事」でないのは、唯一、ハイデガーの『存在と時間』のみといっても過言ではない。


木田氏の人生は、ハイデガーの探究に費やされた。その過程に小林秀雄がいたにすぎない。だからといって羊頭狗肉の本だなどというつもりはない。むしろ、ひとりの人間が戦争の時代を経るなかで、己れのなすべきこと、木田氏は好きなことと表現しているけれど、ハイデガーの謎に迫ることを数十年をかけて、取り組んでいたことが、二冊の新書本から了解される。


この二冊のうち、『哲学は人生の役に立つのか』の序章「『幸福』なんて求めない」が実は非常に重要な問題を提起している。「幸福論」の無意味さについてである。ソフォクレスの『アンティゴネー』を引用して「不気味なものはさまざなにあるが、人間以上に不気味なものはない」と。木田氏は「人間は技術をコントロールできない」とし、科学は人類の理性がもたらしたというのは誤解であるという。

人類の理性が科学を産み出し、その科学が技術を可能にしたのだという、この順序に間違いはないのでしょうか。むしろ、技術が異常に肥大化していく過程で、あるいはその準備段階で技術が科学や理性を必要とし、いわば自分の手先として科学や理性を産み出したのではないか、と疑ってみる必要がありそうです。(p.28『哲学は人生の役に立つのか』)

人間が技術を産み出したのではなく、技術が人間を人間にしたのだと思うのです。そして、その技術が自己を貫徹するために、その手先として科学を産み出した。決して科学が技術を産んだわけではなさそうです。・・・
十七世紀の科学革命は、その成果を組織化するという形で進行したようです。そのことは、最近、山本義隆さん(科学史家・元東大全共闘代表)が『十六世紀文化革命1・2』(みすず書房)で精細に証示してくれています。(p.31同上)


一六世紀文化革命 1

一六世紀文化革命 1

一六世紀文化革命 2

一六世紀文化革命 2


また、資本と技術を人間にとって「不気味なもの」として、次のように言う。

資本はそれ自体の論理をもって、自己を増殖させるところならどこにでも入りこんでいき、一種の自己運動を起こしているように思われています。技術もそれと似たような自己展開の運動を起こしているのではないでしょうか。/たしかに、かつては資本家というものが存在していましたし、資本の動きをコントロールする経済官僚や経済学者、実業家などがいました。しかし現在、自分が資本の動きをコントロールしていると自信をもって言える資本家や経済人がいるでしょうか。みんなが自己増殖する資本独自の動きに翻弄され、こき使われて、右往左往させられているだけのようです。/それと同じように、技術も独自の自己展開の運動を起こし、技術者も科学者も、その技術を駆使しているつもりの実業家たちも、その技術に翻弄され、その手先になっているだけのような気がします。(p.32-33 同上)


木田氏は、技術の論理とは人間にとって異質なもの、不気味なものであり、肥大化した技術文明に警告を発してるのだ。

小林秀雄から遠い話になってしまったように見えるが、木田氏が新書二冊で自己の履歴を語る根底にハイデガーがあることは確かだし、「人生いかに生きるべきか」という小林秀雄の論理に符合するところがあるので、木田氏の幸福論で終えるのは、タイトル及び木田氏の新書二冊が、著者の読書遍歴以上の問題を孕んでいたからである。



一日一文―英知のことば

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