ロベルト・ムージル


古井由吉『ロベルト・ムージル』(岩波書店、2008.2)を、本書のなかで言及されている古井氏の翻訳による『愛の完成』『静かなベロニカの誘惑』の二編と、川村二郎訳『トンカ』を併読しながら読了した。


ロベルト・ムージル

ロベルト・ムージル


ロベルト・ムージルの難解さをどう表現すればいいのか、翻訳者の古井氏は、本書で自らも触れているとおりだから、敢えて難解さを回避することなく、テクストに向き合うべきであることを古井氏から教わる。換言すればロベルト・ムージルの難解さは、古井由吉氏の難解さに通じるものがあるということだ。


杳子・妻隠(つまごみ) (新潮文庫)

杳子・妻隠(つまごみ) (新潮文庫)


ロベルト・ムージルは中篇第一作『テルレスの惑乱』によって注目された。この作品は、ニュージャーマン・シネマのフォルカー・シュレンドルフが『テルレスの青春』(1966)として映画化している。原作がロベルト・ムージルと意識することなく、通常のリアリズム小説、少年の心理を描いた作品とみられるが、実は、ムージル的世界の映像化の嚆矢となった。



小説は通常テクストから読み取れる内容によって読者は理解を進めるわけだが、テクストそのものの意味がきわめて分かりにくい作品がしばしば存在する。ロベルト・ムージルの作品は、テクストの表層を読むだけでは、理解しがたい。古井由吉氏の解説を読み、はじめてムージルの意図がわかる、また、あらためて読むと、そこにムージルが仕掛けた恐るべき人間存在の根源に迫るものがあり、古井氏はムージルの作風を次のように記すときなるほどその難解さを解く鍵がわかる。

あることを言っておいて、すぐ自分でひっくり返す。分解したかと思うと分解の極地から全体が出てきたり、ひとつの全体をみごとに描いたと思ったらそれは分解するためのものであったり、最後のところはきわめて形而上的な抒情に化してしまう。それまでのいろいろな観念や論理が、抒情の声が響き出るためのプロセス、橋渡しであるようなあんばいなのです。(p.46)


『トンカ』の要諦について、トンカの妊娠は主人公の不在時であり、それは主人公からいえば、蓋然性であり、主人公にとっての「事実」はトンカの無垢に真実をみる。このような見方について、古井氏は、次のように記す。

人は物を直接見ているわけではない。いつも何かの価値観を通して見ている。だからこそ現実がある。世界を見るのは、その価値観を通して見ているのだ。もしその価値観によらずに直接見るとしたら、世界というのはまとまりを失ってひとつひとつの細部へ分解してしまう。(p.62)


『愛の完成』と『静かなベロニカの誘惑』の二編は、特に難解な作品になっている。難解というのは、文脈的な意味での難解さであり、文体そのものはすっきりしている。

限定による愛を、無限定の境へ抜けるこころみとも言える。そして愛の前提である諸限定をひとつずつ解体していき、感情よりもかすかなものでしか触れられぬ彼方をのぞかせるのが、厳密な思考のはたらきであり、それを、惑乱した女性の肉体が行うのだ。(p.224)


ロベルト・ムージルは、リアリズムの作家とはいえない。「リアリティ」がない小説はややもすれば批判される。

批評家が小説を批評して「リアリティがない」という。あるいは「リアリティを感じる」とか。これも現実感覚といったものです。小説というものは現実感覚をもとにして、いわゆるリアリティを表現するものだ、というオーソドックスな考え方があるわけです。これにたいして、この作品(『特性のない男』)の主人公は、「可能性感覚」というもののほうを標榜するのです。(p.137)


「可能性感覚」という言葉が、ムージルを象徴している。ここに至って、やっと長編小説『特性のない男』の入り口に立ったことを感じる。


ムージル書簡集

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ムージル・エッセンス 魂と厳密性―ローベルト・ムージルエッセイ選集

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ムージル日記

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