ドーダの近代史


鹿島茂『ドーダの近代史』(朝日新聞社、2007.6)は、東海林さだおの「ドーダ学」を基にしている。幕末の水戸学から始まる「ドーダ」の近代史を読みながらも、東海林さだお『もっとコロッケな日本語』(文春文庫、2006)をまず読む。


ドーダの近代史

ドーダの近代史



鹿島茂が、序文で引用しているところだが、ここは「ドーダ」の説明にもなるので、東海林さだおの原文から引用しておきたい。

漫画家、小説家、音楽家、音楽家、画家、俳優、タレント、カメラマン、歌を歌うアーチスト・・・。こういう人たちは朝から晩までドーダのことを考えているのだ。こういうドーダはドーダ、ああいうドーダはドーダ、ドーダ、ドーダ、ホラ、ドーダ、と、ドーダ、ドーダで半年暮らし、あとの半年は寝て暮らすどころか、やはりドーダ、ドーダで起きて暮らす。(p.27『もっとコロッケな日本語』)


もっとコロッケな日本語を (文春文庫)

もっとコロッケな日本語を (文春文庫)


東海林さだおの「ドーダの人々」三部作を読むと、一つひとつ頷きながら、ソーダ、ソウダと面白く読む。あえて、鹿島茂本を丁寧に読む気が失せてしまった。

そこで、鹿島氏の「お手本ドーダ」を記録してみよう。

お手本ドーダというのは、・・・(中略)・・・これはと思い定めた(あるいはそう強いられた)お手本(古いところでは、マルクスエンゲルスレーニンスターリン毛沢東、新しいところでは、フーコーデリダドゥルーズなど)の思想に自分がいかに忠実であるかを競い、その競争に於いて少しでも忠誠度が強いと思った者がかませるドーダである。(p.346)


本書は「ドーダ理論」の実証的作品であるが、「ドーダ論」自体が一種感性的なものなので、所詮、遊びによる解釈にとどまらざるを得ないのではないか。で一応、『ドーダの近代史』の目次をあげておく。

  • ドーダ学とは何か?
  • ドーダの夜明け 水戸学
  • 水戸光圀の子供たち
  • 陰ドーダの誕生
  • 外ドーダの登場
  • 内ドーダの転換 西郷隆盛の子供たち


という構成なのだが、ところどころを走り読みをしてみたが、東海林さだおの「ドーダの人々」を超えるものではない。「ドーダ」学会自体が遊びなのだ。芸術家や思想家の心理は、「ドーダ」であることは自明のことであり、敢えて、実証してしまうとなぜか馬鹿馬鹿しくなってしまう。「ドーダ理論」は、東海林的遊びのなかでこそ輝くものだ、と思う。


馬車が買いたい!―19世紀パリ・イマジネール

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鹿島茂氏には、どうか本業のフランス文学関係に専念していただきたいものだ。『ドーダの近代史』は、贔屓目にみても「トンデモ本」だ。これも、「絶対精神」が喪失した時代の病だろうか。


子供より古書が大事と思いたい

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