ロング・グッドバイ


村上春樹新訳三部作の最終作。レイモンド・チャンドラーロング・グッドバイ』(早川書房)が、発売された。フィッツジェラルドグレート・ギャツビー』(中央公論社、2006)が、昨年11月だったから、随分早いペースだ。早速「訳者あとがき」から読む。


ロング・グッドバイ

ロング・グッドバイ


清水俊二訳の『長いお別れ』(早川文庫)を読んでいるが、村上春樹がなぜサリンジャーフィッツジェラルドに続いて、レイモンド・チャンドラーなのか、そこが知りたいわけだ。



村上春樹によれば、レイモンド・チャンドラーは「文章家」であり、自己意識を隠蔽した文体を持つという。

フィリップ・マーロウという存在を確立し、自我意識というくびきに代わる有効な「仮説システム」を雄弁に立ち上げることによって、チャンドラーは近代文学のおちいりがちな袋小路を脱するためのルートをミステリというサブ・ジャンルの中で個人的に発見し、その普遍的な可能性を世界に提示することに成功した、ということになるのかもしれない。そしてその可能性を皿に載せて我々の前に差し出しているのだ。ほら、と。(p.540)


さらに村上氏は、チャンドラーをフィッツジェラルドと比較しながら、『ロング・グッドバイ』が、『グレート・ギャツビー』に似ていると指摘している。テリー・レノックスとジェイ・ギャツビーに対する語り手マーロウと、キャラウェイの位置を、相似形のように看做す。二つの作品に共有されるものがあるという。


グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

レイモンド・チャンドラーは彼自身の『グレート・ギャツビー』を、ミステリーという形式を自家薬籠中のものとすることによって、またそのストラクチャーにあくまで固執することによって、見事に作り上げることができたのだ。別の言い方をするなら、チャンドラーは自ら築き上げ、時間をかけてひとつひとつの細部のねじを締め、しっかりと基礎を固めてきたフィリップ・マーロウという都市的伝説の枠組みと、フィッツジェラルドの生み出したきらびやかな都市寓話の枠組みをひとつにあわせることによって、新しい豊かな物語世界を描きあげることに成功したのだ。(p.554)


それが「文学全般にとっても大きな福音」となったと、チャンドラー『ロング・グッドバイ』を絶賛している。「訳者あとがき」のみで判断することは軽率の謗りを免れ得ないけれど、ここには、作家・村上春樹を解読するための原点があるように思えるのだ。村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』が、フィッツジェラルドやチャンドラーの影響下にあると言えないだろうか。「僕」と「鼠」との関係に重ねてみる。

さて、早速、『ロング・グッドバイ*1を読むことにしよう。


風の歌を聴け (講談社文庫)

風の歌を聴け (講談社文庫)

キャッチャー・イン・ザ・ライ

キャッチャー・イン・ザ・ライ

*1:拳銃をデザインしたチップ・キッドによるカヴァーの装丁が良い。