事象そのものへ!


池田晶子さんの知識人批判には「生と死」を根源的に問う「存在論」があった。『事象そのものへ!』(法蔵館、1991)から引用する。


事象そのものへ!

事象そのものへ!

私たちに必要なのものはいつも、生(ある)と死(ない)との存在論だ。「人生」のこの構造が変わらない限り、思想に前線も銃後もありはしない。(p.10「哲学への開放」)

意識にとって「存在」は、哲学発生の二千年の昔から、いつも変わらぬ大問題だったのだ。そして、「なぜ」という問いに、「神」と答えられた時代は、前世紀の末で終わりを告げた。今私たちは、なぜ「在る」のか、わからない。科学上の新事実が発見されるほど、この問いはますます尖鋭化されるだろう。(p.11「哲学への開放」)

私たち生まれてきたものは、死ぬまで生きてゆくしかないのだろう、先に死にゆくものたちを、こころの隅で見送りながら。ただ、それだけの事実の、何がいったい、こんなにも悩ましく私たちのこころを追い詰めるのか。そして、追い詰められたこころが、追い詰められたそこに、責めるべき何をも、見出し得なかったとき、再び自身に、生滅する一切に、添い続けようとする以外の何が残されているのだろう。哲学は構築されるのではない。感受したものを問うことだ。夢をみるように問い続けてゆくことだ。(p.25「哲学への開放」)


私たちは、池田さんの死を「こころの隅で見送りながら」、池田さんの「ことば」受け止めるしかないだろう。神なき世界で、「存在」を問うこと。それが、池田晶子さんの問いに寄り添うことになる。いま一度、合掌。


14歳からの哲学 考えるための教科書

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あたりまえなことばかり

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