生き延びるためのラカン


斎藤環『生き延びるためのラカン』(パジリコ, 2006.11)を読了。晶文社のHPに連載していた原稿に加筆したもので、著者によれば「日本一わかりやすいラカン入門」とのこと。確かに、本書を読めばラカンが提起している様々な問題が、現代社会で起きている現象を解読する手掛かりになる。


生き延びるためのラカン (木星叢書)

生き延びるためのラカン (木星叢書)


「欲望は、他者の欲望である」、このあまりに有名な言葉も、斎藤氏の説明で納得できてしまう。「自己」とは何かを明確に言表できない。

僕たちはけっして、自分という存在の根拠を手に入れることはできないのだ。/人間のあらゆる文化は、現実を言葉のシステムに置き換えること、すなわち「象徴界」を獲得することで、はじめて可能になったものだ。・・・(中略)・・・平和で文化的な生活とひきかえに、僕たちは「現実」そのものを捨てた。もう「現実」は決して僕たちのものにはならない。(p.055-056)

人間は、「本当の欲望の対象」をつかむことができない、ということ。・・・食欲のような欲求は、食事で満足させることができるけれど、物欲や性欲のような「欲望」には、究極の満足はありえない、・・・なぜなら、欲望はあくまでも言葉の作用によって後天的に生ずるものだから。(p.097-098)


欲望には究極の満足はありえない。これは、誰もが自分の経験から納得できるだろう。

ラカンは、人間は性的なレベルにおいてすら、本能をなくしてしまった動物と考える。だから性は、完全に象徴的なものでしかない。(p.158)

人間が語る存在である限り、人間の言動はひとつの症状として、そのひとの存在を指し示すことになる。ラカンの文脈でいえば、症状こそが人間の存在証明になるってわけだ。(p.196)


ラカンによる「欲望」は、他者の欲望であり、象徴界は「シニフィアン」によって構造化されている。


「シェーマL」(p.109)からは、「主体と大文字の他者との関係は象徴的なものである」が、「その関係はいつでもa'- aの平面、つまり想像界の介在によってジャマされる」と解説される。もうひとつ、「ボロメオの輪」(p.201)は、現実界象徴界想像界の関係を示す図であり、現実界とは、象徴界想像界の働きがあってはじめて、その都度「その働きの外側」に生み出される領域だという。現実界はそれ自身では存在することができない。なんだか、ラカンの「現実界」は、カントの「物自体」に似ていると思わないだろうか。


カントの哲学 (シリーズ 道徳の系譜)

カントの哲学 (シリーズ 道徳の系譜)


「日本一わかりやすいラカン入門」と著者がいう本書は、実におもしろいし、読むことで世界の構造が分かるような気がする。ラカン理論を用いることで、「ひきこもり」の解釈をすると、何もしないで自分のことばかり責める「ひきこもり」状態こそ人間本来の状態であるといえる。ただし、本来の状態が健康とは限らないけれど。


社会的ひきこもり―終わらない思春期 (PHP新書)

社会的ひきこもり―終わらない思春期 (PHP新書)


斎藤環は『戦闘美少女の精神分析』で「おたく」の存在を定義づけた。『文脈病』や『文学の徴候』など、評論活動にもラカニアンぶりを発揮する。ラカンは確かに難しい。分かるようで、いざ自分の言葉でラカンについて言及することの困難さを痛いほど認識せざるをえない。本書のような入門書について、感想めいたことを書くこと自体が、自らに混乱を招きそうだ。ひたすら、上記のように引用するしかない。


戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)

戦闘美少女の精神分析 (ちくま文庫)


ラカンには、何度でも挑戦したい。世界が謎に満ちていることが分かるだけでも、ラカンを読む価値がある。入門書もいいけれど、翻訳が進みつつあるラカンの「セミネール」が、あの難解な『エクリ』より読みやすいことは確かだ。<フロイトラカン>の方向性にこそ世界を構造的に解読できる可能性があると思いたい。時代が「ジャック・ラカン」に追いついてきたのだ。


無意識の形成物〈上〉

無意識の形成物〈上〉

無意識の形成物〈下〉

無意識の形成物〈下〉

対象関係(上)

対象関係(上)

対象関係〈下〉

対象関係〈下〉