出生の秘密


出生の秘密

出生の秘密


三浦雅士『出生の秘密』(講談社、2005)は、『青春の終焉』(講談社、2001)に続く、表面上は日本近代文学の新たな解読になっている。丸谷才一『樹影譚』*1を導きのテクストとして、中島敦芥川龍之介漱石論を構成して行く。依拠するのは、パースの記号論ラカン精神分析論、ヘーゲルの『精神現象学』等々。テーマは「出生の秘密」なのだが、母と子の問題を包含し、作品の中に見られる作家たちの原初の闇に迫る試みは壮大である。


三浦氏は、イコン、インデクス、シンボルというパースの概念を、ラカン現実界想像界象徴界に対応させている。

本の帯には<漱石研究の新解釈>と記されているが、漱石が登場するのは、第九章「母の場所」からで、全体の半分が過ぎてからとなる。漱石の初期論文「老子の哲学」に言及しながら、漢文の素養と英文学への失望などは『文学論』ではお馴染みのことだが、「出生の秘密」に収斂させるかたちで、論考を進めて行く。

吾輩は猫である』は捨子の話であり、『坊つちゃん』は孤児の話である。非人情を標榜する『草枕』もまた、世を捨てた、逆にいえば世に捨てられた画家の眼を通して描かれた小説である。漱石は、老荘や禅の思想を通して、出生の秘密からあたうるかぎり離れようとしながら、逆にそのただなかに立っていたのだ、ということになる。(p.419)

さらに、『虞美人草』は私生児の物語である、と著者は規定している。

通常は、『三四郎』『それから』『門』の前期三部作、とりわけ『それから』の解読に頁を割くケースが多いが、三浦氏は、あくまで、「出生の秘密」に焦点をあてているので、後期三部作の『彼岸過迄』に飛ぶ。


硝子戸の中』で、「愛憎を別にして考えて見ても、母はたしかに品位のある床しい婦人に違いなかった。」の記述をみた三浦氏は、第14章「僻みの弁証法」に至り、『行人』『こころ』を飛ばして、いよいよ『道草』に言及して行く。


しかし、どうやら、漱石の「出生の秘密」にかかわる<僻み>も、言語空間=象徴界を解いて行くための素材にしかすぎないようだ。芥川龍之介中島敦の作品がそうであったように。

第15章「孤独の発明」では、ルソーからヘーゲル精神現象学』、ラカン鏡像段階」論文によって、文化論=文明論に至る。

文化とは虚構だがそれが現実として振る舞うのが文明なのだ。人間が直面する厳しい現実というときその現実とは、多く社会的現実すなわち虚構にすぎない。
・・・(中略)・・・
真理と非真理、現実と虚構のこの根源的な転倒は文化としての科学的思考、すなわち科学そのものをも覆っている。ヘーゲルは、新カント派の科学論をも、フッサール現象学をも、さらにはクーンのパラダイム論をも先取りしていたということになる。(p.548)

精神現象学』はヘーゲル自身の魂の発展の記録、魂の告白にほかならないということである。(p.549)

精神現象学

精神現象学


『出生の秘密』の第15章には、著者の結論めいたことが、書かれている。*2

僻みの精神がもたらす孤独は、社会を否定し、新しい社会を構想する。
・・・(中略)・・・
ヘーゲルには、感覚から知覚、科学的思考へと展開してゆく人間の精神の秘密、出生の秘密が、そのまま、社会の、共同体の、国家の秘密へと延長されてゆくことは自明だったろう。自己意識の運動は個から類までを貫いているのだ。共同体もまた僻みの構造をもっているのだ。宗教も芸術も哲学も例外ではない。(p.565)


最終章「魂の悲哀」では、再び、丸谷才一の作品『エホバの顔を避けて』に言及しながら、吉本隆明の『共同幻想論』における<自己幻想>と<共同幻想>が逆立ちした関係にあることをもとに、ラカンと関連させて、次のように述べる。

ラメテは、吉本隆明の概念では対幻想の次元に位置するが、ラカンの概念では想像界に位置する。ヨナとアシシドは、自己幻想と共同幻想の次元に位置するが、ラカンの概念ではともに象徴界に位置する。ラカン吉本隆明をじかに対比させれば、自己幻想と共同幻想は、対幻想の地点で中折れして互いに重なるのであり、重なりあう自己幻想と共同幻想象徴界に、両者を支えるように中折れする地点である対幻想は想像界に対応している。吉本隆明現実界にふれていない。(p.598)

さてしかし、丸谷才一『樹影譚』における「出生の秘密」から始まり、中島敦や芥川の作品に触れながらも、三浦氏の筆は、おおきく迂回し、*3漱石にいたるまでに、ヘーゲルラカンに及び、再び、丸谷才一に帰って、「出生の秘密」にかかわる「言語空間の光と闇」にたどりつく。


「あとがき」で、「人は言語空間すなわち死のなかで生き、生はただ言語によってのみ輝く。言語空間の探求はいまはじまったばかりなのだ。」と結ばれる。日本近代文学のなかの作品にみる「出生の秘密」を探るスタイルをとりながらも、言語空間=象徴界への傾斜に多く頁がさかれていて、「文芸批評」の位相から逸脱している。もちろん、逸脱とは良い意味での表現であり、きわめてスリリングな読み物となっている。


著者の『青春の終焉』が、60年代から「青春」をキーワードとして、近代文学史を明快に遡及した傑作であったけれど、『出生の秘密』は、新たな「言語空間の探求」的意味合いが強く、対象が大きく拡大され、視野の広がりを感じさせる優れた「批評=評論」といえるだろう。*4

青春の終焉

青春の終焉

*1:「ただ、ざわめく影の樹々のなかで時間がだしぬけに逆行して、七十何歳の小説家から二歳半の子供に戻り、さらに速度を増して、前世へ、未生以前へ、激しくさかのぼってゆくやうに感じた。」という最後の一行が本書のモチーフとなっている。

*2:漱石や芥川などの作家を「出生の秘密」から読み説く方法は、一面では説得性があるけれど、全ての作品を、原点に収斂させることは、他の重要な作品を排除することにほかならない。ここが、「文芸批評」の二律背反的な面白さになっているからこそ、「読書の快楽」があるといえよう。

*3:本書の場合、迂回部分に批評の重点が置かれているように読むことも可能だ。

*4:あえて注文をつけるとすれば、引用文献の正確な記載・頁数と、浩瀚な書物(617頁)なので、巻末に索引が欲しいところである。「文芸批評」としては許容されるのかもしれないが、内容は、本文に記したように「批評」=「評論」になっているのだから、編集サイドの配慮が必要だろう。