アメリカ,家族のいる風景


前作『ランド・オブ・プレンティ』が、アメリカを描きながらも、いまひとつヴィム・ヴェンダースの意図が空回りしていたことを指摘したが、最新作『アメリカ,家族のいる風景』(原題:Don't ComeKnocking,2005)では、『パリ、テキサス』のサム・シェパードと20年ぶりのコンビを組み、ヴェンダース自身のアメリカへの幻想を「カウボーイ」への挽歌として謳い上げた傑作になっている。


パリ、テキサス [DVD]

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老西部劇俳優ハワード・スペンス(サム・シェパード)は、撮影現場から逃走し、30年近く帰省していない故郷へ向かう。そこには、母(エバ・マリー・セイント)*1が待っている。父の墓を案内され、転宅した自宅に息子を迎えいれるが、地下室の部屋をあてがう。そこには、俳優としての息子に関する記事の切り抜けが丁寧に保存されている。映画を観る者は、ハワードの視点に同化して、アルバムから彼の人生を回顧することができるわけだ。


街のカジノがある遊び場に出ても、気持ちが落ち着かないハワードに、母はかつて息子の恋人だった女性から電話があり子供が生まれたことを知らせる。ハワードは、自分に子供がいたことを知らなかった。早速、息子がいるというモンタナを訪ねる。もちろん、そこは20年前に映画撮影のロケ先で知りあった女性ドリ−ン(ジェシカ・ラング)が住む町であった。息子アール(ガブリエル・マン)は酒場で歌手をしていた。突然の父親の出現に驚き、怒りをあらわにする。


一方、逃走した主演俳優を契約上から、現場に連れ戻す探偵役としてティム・ロビンスが出演している。クールでひたすら、ハワードを捜索し本人を連れ戻すことだけが目的の男。適役といえよう。


ハワード・スペンスには、どうやらもう一人の子供・娘がいるらしい。それとなく、母の死を看取った娘スカイ(サラ・ポーリー)は、母の遺骨を抱えて、ハワードの前に出現する。画面では、何回かにわたって、スカイのシーンが伏線として挿入されていて、観る者にはその必然性が分かっている。


パリ、テキサス』のような明らかな悲劇調ではく、映像のリズムは軽快であり、時にエドワード・ホッパーの絵画を連想させるショットが美しい。にもかかわらず、魂の次元で男女は本質的に「遭遇できない=出会えない」映画なのだ。なるほど、画面では、出会うべき人物が出会い、会話を交わすが、その会話に微妙なズレが生じて行く。


真実とは出会えないものであり、常に求め続ける、あたたもロードムービーのように。だたし、親子は異なる。親子同士は、深いところで魂の触れあいを感じあっている。人生の皮肉というべきか。家族の夫婦単位は崩壊するが、親子は濃密な関係を築くことが可能なのだ。これぞ、人生の不思議というべきことか。


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■『ブロークバック・マウンテン』と『アメリカ,家族のいる風景』は、西部劇=カウボーイへの挽歌であり、また、男女・夫婦あるいは、同性同士の愛は困難であるが、親子の関係は別のかたちで続くことを示していた。西部劇=カウボーイへの挽歌を捧げたのが、台湾出身のアン・リーと、ドイツ人監督ヴィム・ヴェンダースとは、アメリカ映画への挽歌の予兆なのだろうか。


北北西に進路を取れ [DVD]

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*1:ヒッチコック北北西に進路を取れ』で、ヒロインを演じていたエバ・マリー・セイントは、美しく老いていた。