日本という国


日本という国 (よりみちパン!セ)

日本という国 (よりみちパン!セ)


よりみちパン!セ」の一冊として小熊英二『日本という国』(理論社,2006.3)の刊行が予告されてから、半年近く待たされた。『<民主>と<愛国>』(新曜社,2002)読後の余韻さめやらぬときだったと記憶する。従って、期待度は大きい。


〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性

〈民主〉と〈愛国〉―戦後日本のナショナリズムと公共性


日本という国について、明治維新から戦前までが前半、後半が敗戦後から現在までという構成をとっている。冒頭に、福沢諭吉の『学問のすすめ』の引用からはじめ、最後に、丸山眞男の「病床からの感想」を置いているのに、なんとなく皮肉めいたものを感じてしまう。


まず、明治維新とは、教育問題からみたとき、江戸時代の身分制度のもとでの実学教育から、「国家」を成立させるための「西欧風教育」が、国民に兵役についたとき「教育」がなければ戦争もできないという発想から、「教育」の民衆化として捉えている視点が新鮮だ。なるほど、寺子屋教育の「自由」と、「義務教育」としての「不自由度」は、どちらが良いとはいえないところが、微妙なところだろう。


福沢の『脱亜論』の引用にはいささかうんざりさせられるが、「植民地化される」よりも「植民地を持つ」ことが近代化過程のなかでの必然であったかも知れない。「学歴社会」が近代化を支える基盤であったことは、歴史上の共通認識であろう。


西欧化=近代化とは、日本にとって近隣のアジア諸国を侵略して行くことでもあった。アジアの解放という名目のもとで、数多くの犠牲者を生み、また、日本の国民の被害を個人や家族の視座からみれば、戦死者や被害を受けたことの方がはるかに大きい。*1


戦後、アメリカからの押し付け憲法が、天皇制の存続と保守政治家の温存であったことも今日では常識のことだ。冷戦体制が、アメリカ軍の駐留を保証した事実。しかし、冷戦崩壊後におきた経済停滞は、戦後経済成長が冷戦構造に支えられていたことの証明でもあった。戦後、アジア諸国への経済援助は、戦争賠償の代替行為としてなされたが、同時に日本経済の発展に寄与したことも記憶しておかねばなるまい。


冷戦体制が崩壊し、アジア諸国民主化されると時期を同じくして「従軍慰安婦問題」や「戦争賠償問題」が浮上したのは、それまで、賠償問題が封印されてきたからにほかならない。


自衛隊の誕生は、対共産国政策であり、冷戦後は北朝鮮の脅威という名目で許容される状況をつくりだしているが、自衛の範囲を逸脱し海外の戦地、イラク派兵などは、そもそも「憲法」の趣旨に反している。ひたすら、アメリカに従属することで、戦後を生き抜いてきた「日本という国」の進むべき道は?その答えは本書には記載されていない。*2替わりに、丸山眞男「病床からの感想」の引用で終わっている。福沢諭吉を一貫して評価した丸山眞男のことばで終えるのは、福沢批判からはじめた小熊英二にとって如何なる意味をもつのだろうか。

さて、丸山眞男の文章を『丸山眞男集第五巻』(岩波書店,1995)から直接引用しておこう。

丸山眞男集〈第5巻〉一九五〇‐一九五三

丸山眞男集〈第5巻〉一九五〇‐一九五三

思えば明治維新によって、日本が東洋諸国のなかでひとりヨーロッパ帝国主義による植民地乃至半植民地化の悲運を免れて、アジア最初の近代国家として颯爽と登場したとき、日本はアジア全民族のホープとして仰がれた。日本の勃興がアジアの民族独立運動に与えた限りない刺激はいまさら述べるまでもなかろう。他方、またアジアの悲運の挽回ということが明治初年の進歩的自由主義者の夢にも忘れえぬ目標であった。ところが、その後まもなく、日本はむしろヨーロッパ帝国主義の尻馬にのり、やがて「列強」と肩をならべ、ついにはそれを排除してアジア大陸への侵略の巨歩を進めて行ったのである。しかもその際、日本帝国の前に最も強力に立ちはだかり、その企図を挫折させた根本の力は、皮肉にも最初日本の勃興に鼓舞されて興った中国民族運動のエネルギーであった。つまり、日本の悲劇の因は、アジアのホ−プからアジアの裏切者への急速な変貌のうちに胚胎していたのである。敗戦によって、明治初年の振り出しに逆戻りした日本は、アジアの裏切者としてデビューしようとするのであるか。私はそうした方向への結末を予想するに忍びない。(p.82-83,『丸山眞男集第五巻』)


戦争が遺したもの

戦争が遺したもの

*1:「死亡者のひとりひとりの背後には、心に大きな痛手をおった遺族たちが、たくさんいた」(p.92)と小熊氏は書いている。

*2:日本の戦後について、もっとくわしく知りたい人は、著者の本を読んでほしい、というのは、「よりみちパン!セ」の対象からいえば、詐欺に近いのではないか、小熊さん!