ヴェラ・ドレイク


マイク・リー監督作品『ヴェラ・ドレイク』(2004)が、実に味わい深い人間=家族ドラマになっている。『秘密と嘘』(1996)以来の快挙だ。マイク・リーはいつも、普通の労働者の日常を描き、そこに波紋を投げかける。


1950年のロンドンが舞台。当時のイギリスでは、堕胎は犯罪であった。平凡な労働者階級の一家の母であり妻であるベラ・ドレイク(イメルダ・スタウントン)は、家政婦の仕事をしている。仕事を終えたベラは、ひとり暮らしの母の面倒をみて、帰宅する。彼女が一番楽しみにしている一家団欒の夕食の時間。夫スタン(フィル・デイヴィス)は、弟が経営している修理工場で働いている。長男は仕立て屋に勤め、長女は電気部品を作る工場へ勤めている。夫と二人の子どもが帰ると、ささやかながら、家族がもっもと楽しい時間を共有するのであった。


ところが、ベラには家族に隠れて、貧しい女性が望まぬ妊娠をしたとき、流産させる方法で、多くの女性たちを助けていた。その仲介をする友人リリーは女性たちから報酬を受け取っていたが、ベラは、報酬のことはまったく知らず、ひたすら困っている女性を救済していた、と思っていた。


偶然から昔知っていた女性の娘が妊娠したので、いつもの処置をした。その後、娘の容態が急変し、病院へ駆け込むことになり、娘が不法は流産処置を受けていたことが、病院側に知られてしまう。そして、不法な堕胎をしているのが、ベラであることを警察はつきとめる。


ベラの娘が、一人暮らしの隣人レジーと婚約を祝うまさにその日に、ウェブスター警部(ピーター・ワイト)が訪れる。ベラを呼び出し、事情聴取をはじめようとするが、家族には何が起きているのか、まったく理解できない。


警察に拘束されたベラは事実を認め、夫に自分のしたことを話す。でも「妊娠」とか「堕胎」という表現ではなく、娘たちを助けただけだと言う。ベラの表情の変化が見事である。イメルダ・スタウントンは、親切で幸福な母親から、突然、重大な犯罪者として法廷の前に立たされるのだ。驚きと後悔と、家族への思いが複雑に錯綜した名状しがいたい表情だ。


さて、ここからがこの映画の素晴らしいところだ。ベラを犯罪者として拒否する長男に対して、父スタンは、母親の行為を責めるのではなく、母の帰りを待とうと諭す。判決が下される日、家族一同は法廷の片隅で、判決を待つ。2年6ヶ月の禁固刑を言い渡される。涙を流すベラ。その光景に耐える家族たち。母を待つことで結束した家族の絆の強さが、前面に押し出される。


日本のような中絶天国からみれば、なんと理不尽な法律であろうかと思う。けれども、当時のイギリスにあっては、中絶は犯罪であり、母体に悪影響を及ぼす場合のみ合法と判断された。それが、当時のイギリスの道徳だったのだ。貧しい女性は、法の目を潜って堕胎の世話をする女性に頼らざるを得なかった。ベラにとってそのような貧しい女性を救済することが自分の役割と自覚していたのだ。


1967年に法改正がされ、中絶が合法化される。1950年という時代背景。まだ、戦争の傷跡を引きずっていた時代。そんな時代であっても、望まない妊娠をする女性が多かった。法律は、どのようなものであれ、法的規範を示し、法に違反する行為は犯罪とされる。1950年代の道徳では、婚前交渉や不倫や、望まぬ妊娠そのものは道徳的に否定されていたのだ。ベラは、普通の家庭を持つ女性として、望まぬ妊娠に困惑している女性を助けたに過ぎない。


粉川哲夫の「シネマノート」で、紅茶の受け皿に触れていた。この点は、故小野二郎の著書*1で知っていたが、映画で実際に見ることができたのは、『ヴェラ・ドレイク』が、はじめてであった。以下、粉川氏の文章を引用しておく。

◆ヴェラに秘密で金を摂取していた「闇の仲介者」リリー(ルース・シーン)が、「客」と密談する喫茶店のシーンで、彼女は、カップのなかのミルク入り紅茶を受け皿にあける。これは、小野二郎を一般の読者にも有名にした『紅茶を受け皿で――イギリス民衆感覚』(晶文社/1983)が論じている労働者階級の習慣である。こうすることによって熱い紅茶を冷まして飲むらしい。


マイク・リーの作品は、いつも地味でつつましく生きている普通の人々が描かれる。ベラを演じたイメルダ・スタウントンは、多くの主演女優賞を受賞している。もちろん、米アカデミー賞の主演女優賞候補にもなっていた。実力的には、イメルダ・スタウントンが受賞に相応しいが、『ミリオンダラー・ベイビー』のヒラリー・スワンクは二度目の受賞なので、ここは、英国アカデミー賞主演女優賞のイメルダ・スタウントンに与えて欲しかった。


ケイト・ブランシェットは、私の好きな女優なので、『アビエイター』のキャサリン・ヘプバーンを演じた、ケイトへの助演女優賞・受賞に関しては、文句なしだ。が、まあしかし、受賞そのものより、作品の素晴らしさでは、『ヴェラ・ドレイク』は、クリント・イーストウッドミリオンダラー・ベイビー』を凌駕することは確かだ。『ヴェラ・ドレイク』を観て、実感したことである。


『ヴェラ・ドレイク』公式ホームページ


マイク・リー監督代表作

秘密と嘘 [DVD]

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キャリア・ガールズ [DVD]

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人生は、時々晴れ [DVD]

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