「死の棘」日記


「死の棘」日記

「死の棘」日記


島尾敏雄の『死の棘』は、なぜ、入院前で終わるのか気になっていた。『「死の棘」日記』にその理由が書かれているかも知れないという予測で、読み始めた。入院前後の「地獄」は、夫妻・二人の極秘事項かも知れないではないか。それが『日記』として刊行されたことは、島尾氏の死後の時間の経過が、「家庭の事情」は歴史として公開してもいいというミホ夫人による判断により、今回の刊行となった。そのことは、今なお喪服でいるミホ夫人が序文で触れている。


けれども、『死の棘』はなぜ、妻の入院でおわるのか。詮索することはよろしくない。しかし、気にかかるのだ。晶文社の『島尾敏雄作品集第四巻』では、病妻ものとして、前半は退院後にかかわる9篇と、後半に、入院前の6編が収められている。この構成自体に、のちの長編としての『死の棘』の構想がみえてくる。


一連の「病妻もの」=『死の棘』は、それぞれ短編として、妻の退院後に書かれている。『島尾敏雄作品集第四巻』(晶文社)の「解説」と『死の棘』(新潮社)より、「初出」順に並べてみる。

・『われ深きふちより』(『文学界』1955年10月)
・『或る精神病者』(『新日本文学』1955年11月)
・『のがれ行くこころ』(『知性』1955年12月)
・『鉄路に近く』(『文学界』1956年4月)
・『狂者のまなび』(『文学界』1956年10月)
・『治療』(『群像』1957年1月)
・『一時期』(『新日本文学』1957年1月)
・『重い肩車』(『文学界』1957年4月)
・『転送』(『総合』1957年8月)
・『ねむりなき睡眠』(『群像』1957年10月)
・『家の中』(『文学界』1959年11月)
◎『離脱』(『群像』1960年9月)
◎『死の棘』(『群像』1960年9月)
◎『崖のふち』(『文学界』1960年12月)
◎『日は日に』(『新潮』1961年2月)
◎『流葉』(『小説中央公論』1963年4月)
◎『日々の例』(『新潮』1963年5月)
◎『日のちぢまり』(『文学界』1964年2月)
◎『子と共に』(『世界』1964年6月)
◎『過ぎ越し』(『新潮』1965年5月)
◎『日を繋げて』(『新潮』1967年6月)
◎『引っ越し』(『新潮』1972年4月)
◎『入院まで』(『新潮』1976年10月)


単行本『死の棘』(新潮社、1977年9月)には、上記の◎印の12篇が所収されている。

死の棘 (新潮文庫)

死の棘 (新潮文庫)


『われ深きふちより』から、『鉄路に近く』一篇を除き『ねむりなき睡眠』までは、入院後の病院内からの記述であり、いわば、『死の棘』の続編的意味合いを持つ。『家の中』は、「私の心は家の外にあった」最後の小説である。『離脱』において、夫と妻の立場が完全に逆転する。狂気に近い病によって、妻は夫を支配下に置く。延々と執拗に繰り返される妻の追求に「私」は圧倒される。


この夫婦には固有の過去があり、戦時中に海軍少尉の島尾敏雄が、奄美大島加計呂麻島に特攻艇「震洋」の隊長として赴任、そこで終戦を迎えるわけだが、その島でのちの妻となったミホさんと出会ったという過去があり、島の旧家の娘であつたミホさんには、隊長・島尾敏雄とは、一種特別な「ひと」であつた。


このときの島尾敏雄と、ミホさんの往復書簡が残されていて『幼年期』(弓立社、1973)に収録されている。そのなかの1945(昭和20)年7月の手紙に、

ミホの生涯はあなたにお捧げ致しました。(p.571)


あなたと御一緒に生きのいのちを生き度い。
死ぬ時は、どうしても御一緒に。(p.576)

と記されている。いわば、二人の結婚は、戦時下という非日常での究極の遭遇であり、ミホさんにとっては、二人の愛は永遠でなければならなかったのだ。そのはずが、戦後の日常の中で、島尾が別の女性に心を移すことは絶対に許されない。


この前提からみれば、極限状態のなかでよくぞ島尾敏雄は「日記」が書けたと思う。吉本隆明は、『島尾敏雄』(勁草書房、1975)のなかで、次のように指摘している。

島尾敏雄の作品群を眺めわたすと、ある生活体験が、どうやって作品にまで昇華されるか、がよく了解される。まず、はじめに目録というべきか、随想というべきかはべつとして、体験への関わり方を示す文章が書かれる。つぎに、この種の文章に、想像力の働きをさり気なく流し込んだ<作品群>が、やってくる。そしてこの<作品群>が、特異な世界にまで<変貌>した<作品>が到達してくる。
島尾敏雄の主な作品は、たいてい、こういう三層にわたる操作を経て形成されているといってよい。
(p.209)


つまり、島尾敏雄はいかなる状況にあつても、まず「日記」(記録)を残して、それをもとに作品を書く。『死の棘』に関していえば、やはり「日記」を書いていた。それをもとに一連の「病妻もの」が作品として書かれる。そして、妻の入院までに限定して『死の棘』が完成された、といえよう。入院後の『われ深きふちより』などを長編としてまとめることも可能であったが、島尾氏は避けている。作品の完成度の問題なのか、あるいは別の理由があるのかは判然としない。


『「死の棘」日記』は、島尾敏雄にとって作品の素材(記録)としてとして、残されていたのだった。そう思って読むと、極限のなかでの冷静な記録魔ぶりが窺える。まぎれもなく島尾敏雄は「作家」であった。


私にとっての島尾敏雄の最高傑作は、短編『夢の中での日常』になる。もちろん『死の棘』は、長編としての最高傑作である。なお、『「死の棘」日記』には、同時代の作家・評論家たち、小島信夫庄野潤三阿川弘之小沼丹吉行淳之介安岡章太郎吉本隆明奥野健男などの名前が頻出していることを付け加えておきたい。



高橋源一郎が、朝日新聞の書評(2005年5月8日)で、『「死の棘」日記』を「愛と呼ぶ」と絶賛していた。良い書評なので、引用して締めることにしたい。

この本の中には、「至上」の苦しみが充満している。それにもかかわらず、読後感が明るいのは、敏雄が最後まで妻であるミホと向かい合おうとしたからだ。狂ったミホは、死者(他者)となった。死者(他者)を取り戻すには、その死者(他者)と向かい合うしか方法はなかったのだ。そして、通常、我々は、そのような行いのことを「愛」と呼ぶのである。