女塚


女塚―車谷長吉初期作品輯

女塚―車谷長吉初期作品輯


車谷長吉の初期作品輯『女塚』(作品社)は、著者が30歳で無一物になるまでの12年間に書かれた作品、それは、卒業論文まで含む著者の青春とでも呼ぶべき内容のものである。

著者の弁によれば、

私(車谷)はいま満五十九歳である。数えでは六十歳の還暦を迎えた。併し気分としては、まだ青春の気分である。いずれ青春の木乃伊として朽ち果てるだろう。いまここに「車谷長吉初期作品輯」を上板しようと決意したのは、死の準備の一つとしてである。
(「あとがき」p.267)


つまり、『鹽壺の匙』で文壇デビューする以前、正確にいえば放浪の旅に出る以前、大学生時代とサラリーマン時代に書かれた8篇が収められている。初期作品のうちに、生硬ではあるが、後年の車谷長吉がそこには色濃く漂っている。『汝はだれか』は、カフカ的作品であり、現実と夢が交錯し、読み応えも十分ある。
本文を引用する。

財産ができれば、巨万の富を所有した自分を他人に見せびらかし、認めさせようと、必要以上に豪奢な家を建てます。ダイヤモンドの指輪を獲た女は、それを所有しただけではなんら満足せず、それを指に嵌めた自分を、暗黙のうちに体裁よく、併し、強引に認めさせようとします。・・・(中略)・・・
古代の王侯が巨大な自分の墓を築いたのも、死んだのちまでも、自分がこう見られたいと考えていたからです。亦、現代でも、あるひとの死後そのひとの墓を建てるに際しては、残された遺族はそのひとを弔う気持は二の次で、世間の口を怖れ、自分たちの社会的地位に見合った墓を打ち建てようとします。(『汝はだれか』p.118)


この文章は、まさしく車谷長吉以外の誰でもない。つまり文体の若干の変容はあるものの、その本質的な部分は、初期から一貫している。

車谷長吉名で書かれた『昭和二十年生まれ』は、昭和47(1972)年時の自分の心境を記しているが、内容は現在の車谷とまったく同じである。それは、文学を志向する男子の決意とも読める。卒業論文フランツ・カフカと藝術』は、カフカに己を重ね、『断食芸人』*1を対象に、

凡ての藝術家にとって自分の藝術は真実である、いや、真実であらねばならない。(卒業論文フランツ・カフカと藝術』p.214)


として、岸田劉生の『美の本體』から「誠の藝術家にとって、世間からきらはれる事は一つの誇りだ。しかし實に淋しい事だ。」を引用する。「自分の藝術は真実である」と信ずる車谷長吉の文学論が、卒業論文にあらわれている。


『女塚』に収録された8篇の作品は、その後の放浪生活を示唆し、また、そののちの文学者への迂回をしながらの一本道を指し示している。私小説は、『飆風』を最後として、どうやら本気で「史伝」を文藝雑誌に掲載している。率直に言って車谷長吉の「史伝」は読むに耐えない。いま、「史伝」が求められていると錯覚しているところもまあ、凄いといえば言える。


車谷長吉私小説作家である。ぜひ、『鹽壺の匙』に回帰=再生していただきたい。一読者としては、「青春の気分」が持続しているのであれば、車谷氏には私小説の極限に挑戦して欲しい。バタイユの『文学と悪』*2こそ、車谷長吉の世界であるはずだ。


車谷長吉最後の私小説


鹽壺の匙 (新潮文庫)

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漂流物 (新潮文庫)

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