コーラス


パトリス・ルコント映画の常連俳優ジェラール・ジュニョが、<池の底>という名の学校寄宿舎の舎監として、赴任する。時は1949年。その学校の校長は厳罰主義で、生徒たちを厳しくしつけている。いわば、おちこぼれ生徒たちの集団を相手に、授業し、舎監として勤務することが、彼の仕事となった。


ジェラール・ジュニョは、小柄、デブ、はげという見た目にはぱっとしない中年男だが、見ているだけで心やすらぐ俳優さんであり、音楽を通じて子どもたちを教育する姿勢には、いまや、忘れられた教育の原点を教えられる。


クリストフ・パラティエ脚本・監督『コーラス』(Les choristes, 2004, 仏)は、文字どおり感動の名作であった。


楽家として著名になったピエール(ジャック・ペラン)が、母親の葬儀のために、ニューヨークからフランスの田舎に帰る。50年ぶりに、かつての友人ペピノが訪ねてきて、<池の底>学校の舎監だったクレマン・マチュー(ジェラール・ジュニョ)のノートをもってくる。そのノートに記載されたピエールとペピノの少年時代が回想される。


クレマンが、学校に赴任した日に、生徒たちが用務員に大怪我をさせる、校長は生徒に容赦ない体罰を与える。クレマンの最初の授業でも、カバンをひったくられるという災難に会う。それでも、生徒たちには、体罰を加えることなく、気がかりな少年ペピノや、「顔は天使だが心は悪魔」と先任教師に指摘された問題児ピエールに関心が向く。反抗的な子どもたちを救う方法として、音楽=コーラスを教えることで、少しづづ心が通い合う。


ピエールの美人の母とクレマンとの交流(淡い恋)や、問題児モンダンへの真摯な対応などが、エピソードとして丁寧に描かれる。そして、伯爵夫人が子どもたちの音楽を聴きたいとの申し出があり、それまで音楽教育に反対していた校長も、クレマンの音楽教育を認めないわけには行かない。


しかし、夏休みのある日、クレマンが子どもたちを連れて野外へ遠足にでかけている間に、学校が火事になる。クレマンは、直ちに校長から解雇を申し渡される。生徒との別れの挨拶を認められなかったクレマンは、カバンを持って<池の底>を出ようとしたとき、とんできた紙飛行機に書かれた別れの文字を発見する。生徒たちは、別離を悲しんでいたのだ。バスに乗るクレマンに、孤児ペピノが追っかけてくる。それが、現在のペピノの語りにつながる。


「映画とは他者の視線から見られた世界の風景」(内田樹)であるとすれば、この映画の視点の冒頭はピエールだが、本編ともなる<池の底>学校は、赴任したクレマンから視た生徒、校長、同僚、ピエールの母へのまなざしによっている。ラスト近くから一転して孤児だったペピノから視た先生像というたかちになっている。つまり、この構成は、あの名作『ニュー・シネマ・パラダイス』を踏まえながらも、その視点の位置が変容して行くことで、クレマン先生への思慕と追憶の構成をとっているのだ。


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クレマン先生は、己の才能の限界を知るものであり、自分のできるささやかなことを「行為する」ことで多くの人々を幸せにしたのだった。無名の人の素敵な生き方。この人こそ真の教育者にほかならない。


美しい少年たちの歌声を聴くだけで、心が洗われるフィルムだ。「他者の視線」が唯一明確にされるのは、火事になった学校を捉えたキャメラが、画面の手前に引くとそこには、放校された問題児モンダンの姿が写される。このシーンのみ、校長の思い込みによって放校され、無罪だった生徒が、ここでは本当の犯罪者になってしまったことが示される、もっとも悲痛なシーンである。敢えて、このように撮ったことは、子どもの教育を一歩間違うと、とんでもない結果になることを、メッセージとして伝えようとしている。教育という名のもとに、生徒を管理し型にはめていないだろうか。大人が反省すべきシーンとして挿入されたと思える。


このシーン以外は、ほとんどキャメラの位置を意識させないリアリズム映画であり、かつて、普通に撮られていたであろう良質の映画である。教育関係者必見の作品といえよう。


『コーラス』の公式サイト


オリジナル・サウンドトラック コーラス

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