靖国問題


靖国問題 (ちくま新書)

靖国問題 (ちくま新書)


気鋭のデリダ哲学者・高橋哲哉靖国問題』が、朝日新聞ベストセラー快読に取り上げられた。おそらく、この種の書物が、ベストセラーになること自体が、この国が陥っている病の深さを知らされる。「靖国」とは何か、かつて、坪内祐三が『靖国』で論じたのは、あくまで資史料を駆使した解読であり、思想的側面からの解読には至らなかった。


靖国 (新潮文庫)

靖国 (新潮文庫)


小泉首相靖国参拝が、なぜ中国の反日デモの理由とされるのか。また、アジア外交にかかわる「靖国問題」とは、どのようなものなのか。本書は、ラディカルに迫った問題提起の書である。


高橋哲哉のアプローチは、「感情の問題」「歴史の問題」「宗教の問題」「文化の問題」そして、「国立追悼施設の問題」までに言及し、「靖国」が孕む問題を見事に剔抉している。明解な論理だ。


まず、「感情の問題」では、靖国システムの本質が、戦死の悲しみを喜びに、不幸を幸福に逆転させる「感情の錬金術」であることを指摘している。

戦死者とその遺族に最大の国家的栄誉を与えることによってこそ、自ら国のために「名誉の戦死」を遂げようとする兵士たちを動員することができるのだ。(p.041)


「感情問題」「遺族感情」がもっとも厄介な問題であり、冒頭に靖国の母からの悲痛な手紙が引用されるのには、それなりに理由がある。名誉の戦死後、靖国の英霊となった息子への冒涜は許さないと母は強く叫ぶ。もちろん、「英霊」として「靖国」に祀られることを望むひとたちには、しっかりした対応が必要であり、その点にも、高橋氏は明確に触れている。「感情」のみでは、解決しないのが「靖国問題」の複雑さなのである。「感情の問題」を導きとして、「靖国問題」の核心に言及して行く。


「歴史の問題」では、A級戦犯合祀問題は靖国にかかわる歴史認識問題の一部にすぎず、本来、日本近代を貫く植民地主義全体との関係こそが問われるべきことを詳説している。


「宗教の問題」は、憲法第20条の「政教分離」にかかわる問題として、首相の「靖国参拝」裁判において、訴訟は棄却というかたちをとってはいるものの、憲法解釈で「合憲」とした判例は一つもないこと、しかし、逆に「違憲性」を指摘した判決例が多いことが、事例で示されている。


「文化の問題」において、江藤淳の言説を引用しながら、「記紀」以来、死者との「共生感」が日本文化の伝統であるという論拠を批判し、仮にそうであるとしても、それが何故「靖国」に結びつくのかが不明であると、指摘する。


靖国神社」には、軍人しか祀られていないこと、大戦で死亡した非戦闘員は「靖国」から排除されている。官軍に対抗した幕府側の戦死者も、一般民間人も、「靖国」から排除されている。これらのことは、「歴史」では詳しく教えられていない。

一八六九年の東京招魂社創建から今日まで、ほぼ140年間、かつて国家機関であった時代も、敗戦後に宗教法人になってからも、靖国神社に「天皇の軍隊」の敵側の死者が祀られた例は一つとして存在しない。靖国神社がこのように敵側の戦死者を排除するのは、まさに「文化」を超えた国家の政治的意志によるのである。(p.174)


A級戦犯の合祀」を「靖国」から除外すれば、問題が解決するというような単純な次元ではない。それは、「国立追悼施設の問題」で触れられる。無宗教の「国立追悼施設」を作り、そこへ、軍人のみならず、民間人も含めて祀られることで、解決するように思えるが、実は、それでも、「第二の靖国」になる可能性が残されているという。

非戦の意志と戦争責任を明示した国立追悼施設が、真に戦争との回路を断つことができるためには、日本の場合、国家が戦争責任をきちんと果たし、憲法第九条を現実化して、実質的に軍事力を廃棄する必要がある。現実はこの条件からかけ離れているため、いつこの条件が満たされるのかは見通すことが困難である。しかし、この条件からかけ離れた現実のなかで国立追悼施設の建設を進めるならば、それは容易に「第二の靖国」になりうる。(p.220)


千鳥ヶ淵墓苑や、沖縄の「平和の礎(いしじ)」に言及しながら、「決定的なことは施設そのものではなく施設を利用する政治である。」(p.226)と本質的な指摘をする。

「おわりに」で引用される石橋湛山のことばの意味は重い。石橋湛山自民党二代目の総裁であり、首相を務めた保守リベラリズムの政治家。「靖国神社廃止の儀、難を忍んで敢えて提言す」と題する論説である。日本の「国際的立場」から「大東亜戦争」の敗戦により、英霊を顕彰することは困難になったと、1945年10月の時点で述べている。かつて自民党にこんな大人物がいたことを知っておいて損はない。


高橋哲哉の「靖国問題」の解決は、以下のとおり。

1.政教分離を徹底することによって、「国家機関」としての靖国神社を名実ともに廃止すること。首相や天皇の参拝など国家と神社の癒着を完全に絶つこと。
2、靖国神社の信教の自由を保障するのは当然であるが、合祀取り下げを求める内外の遺族の要求には靖国神社が応じること。それぞれの仕方で追悼したいという遺族の権利を、自らの信教の自由の名の下に侵害することは許されない。
この2点が本当に実現すれば、靖国神社は、そこに祀られたいと遺族が望む戦死者だけを祀る一宗教法人として存続することになるだろう。
そのうえで、
1.近代日本のすべての対外戦争を正戦であったと考える特異な歴史観遊就館の展示がそれを表現している)は、自由な言論によって克服されるべきである。
2.「第二の靖国」の出現を防ぐには、憲法の「不戦の誓い」を担保する脱軍事化に向けた不断の努力が必要である。(p.235)


至極、まっとうな見解だと思う。「靖国問題」は、感情問題、宗教・歴史・文化のすべてにかかわる問題であり、高橋哲哉氏は、それらの問題を整然と切り分けている。日本人の誰もが関係する問題であり、今後の日本の進む方向によっては、わたしたちがいつ戦争に駆り出されるか分からない。
靖国問題』は、今後日本の政治を考えるための重要な問題を提起していると言っても過言ではない。他人事ではない。私たちの問題であるのだから。


■補足(2005年5月25日)


小泉首相の「靖国参拝」が、日中の外交問題のみならず、経済問題に波及している。このままでは済まないだろう。「靖国問題」は、「憲法の改正」につながり、「自衛」という名目の「軍隊」を持つ。すると、現自衛隊が、まず戦場へ行くことになるが、次は誰か。考えるまでもない。フリーター・ニート・ひきこもり青年が、軍隊予備群にならざるを得ない。まさしく、私たちの生死にかかわる問題だ。いったい、「自衛」という名の「正義の戦争」は、存在しうるのだろうか。日本は、いま「ワイマール共和国」時代と相似している。