未来
未来社のPR誌『未来』5月号の冒頭は、高橋哲哉の『いま、<精神的自由>の危機を考える』と題して、4月9日・東京堂書店での講演を採録したものである。戦後60年。憲法の改正、それに連携する教育基本法の改正が、なされようとしている。
この問題の出発点として、1891年キリスト教者の<内村鑑三教育勅語不敬事件>に触れ、内村が一瞬、「良心の咎め」を覚え、「教育勅語」に拝礼することにためらいがあり、少しだけお辞儀をした。このことが大問題になった。断固として拒否したのではなく、拝礼に躊躇しただけだった。
内村鑑三は「二つのJ」、JesusとJapanを意識したという。内村にとっては「愛国的キリスト者」のつもりで、当時の「国」のために尽くしていた、にもかかわらず、「あらゆる苦悩と汚名を私(内村)に浴びせかけててきた」という。「政治的自由」や「信仰の自由」は、このような試練がなければ得られないのか、と。
ここから、高橋氏は、戦後民主主義や政治的自由、思想・良心・信教の自由がいかにして得られたかについて、回顧する。「日本国憲法」も、それに基づく「教育基本法」も、原則的には、日本国民が、闘争を経て勝ち得たのではなく、東西冷戦体制のもと、あくまでアメリカの政策として、象徴天皇制と憲法九条でバランスをとり、日本にとっては「転がりこんできた」ものであった。護憲派の弱点とは、この問題をどこまで認識していたのか、ということだ。
内村鑑三が一八九一年に「内村鑑三教育勅語不敬事件」に際して述べていた言葉、政治的自由と思想・良心・信教の自由とは、どんな国にあっても、それを求めて努力する人びとがそれぞれの苦しい闘い、試練を通して手にいれるものでなければ真に根づくものとはならないのではないか、という言葉。この言葉の意味を、百年以上後の今日、憲法改悪の流れが加速するなかで、私たちはもう一度かみしめる必要があるのではないでしょうか。(『未来5月号』p.9)
最近の憲法問題や教育基本法について、丸山眞男であれば、どのような発言をしたであろうかと、推測してみる。「民主主義とは不断の努力」によるという丸山眞男氏の思想と行動を、いま根底的レベルで体現しているのが、高橋哲哉氏ではないだろうか。
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