象の消滅
村上春樹の短編集『象の消滅』が、いわば逆輸入されるかたちで洋書のペーパーバック版のような装丁で発売された。17篇の短編が収録されているが、いずれも文庫や全作品で読めるもの。一部『レーダーホーゼン』のみ英語版から翻訳されたものだと言う。
- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2005/03/31
- メディア: 単行本
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この短編集を通読(再読)して思うことは、村上春樹の小説世界のネタが詰まっていることはもちろんだが、あらためて、奇妙なというか不思議なあるいは謎のような作品が多いことに気づいたことだ。
読後の直感的分類で17作品を分けてみた。あくまで、今日現在の感覚による。
- カフカ的世界
『踊る小人』
- ホラー小説
『納屋を焼く』『ねじまき鳥と火曜日の女たち』
- 寓話小説
『パン屋再襲撃』『TVピープル』『緑色の獣』
『ローマ帝国の崩壊・一八八一年のインディアン蜂起・ヒットラーのポーランド侵入・そして強風世界』『象の消滅』
- 恋愛小説
『四月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて』
- 過去についての告白あるいは偽心境小説
『沈黙』『カンガルー通信』『窓』『中国行きのスロウ・ボート』『午後の最後の芝生』
- 神経症的作品
『眠り』『レーダーホーゼン』『ファミリー・アフェア』
村上春樹は、他者による解説や評論について一切言及をしない。批評を回避している作家である。文壇とは距離を置き、逆に海外、主にアメリカでの評価を求めているようにみえる。
村上春樹の作品は、登場人物の語り手を置き換えることで、別の世界が見えてくる。「僕」で語られる世界に、彼や彼女やA、Bなどの視点から視ること。
たとえば『納屋を焼く』について、加藤典洋によれば、作品の裏側に「レイプ殺人」を繰り返す男の話として読むことができるという。これは衝撃であったが、なるほど、きわめて説得的である。パントマイムの女性は行方不明になっているし、僕が近所の納屋が焼かれていないことを確認している。しかし、男は、すでに納屋を焼いていることを平然と述べる。さりげない日常を語る小説が、突如としてホラー作品の様相を呈してくる。
『納屋を焼く』は、アガサ・クリスティ『アクロイド殺し』がそうであったように、テクストの表層からは読者に知らされていないことを、登場人物は知っているという換喩的な手法で書かれている。
村上春樹の作品が、精神分析的な解読によると分かりやすく見えるのは、書かれたことばはシンプルだが、シニフィアンとそれに対応するシニフィエがないことに起因する。通常は、シニフィアンを読むことでシニフィエと対応させる。シニフィアン=表層のみ読むと意味が分からないことになってしまうのだ。
小説の中のもうひとつの次元、それが村上春樹が書いているテクストだとすれば、『象の消滅』の短編から、異次元の空間が読めないだろうか。
例えば『ファミリー・アフェア』の兄妹の関係は、どうなのだろうか。兄である僕は無感動な人間であり、好悪をはっきりさせる以外にこれといって、自分の生き方を持っているわけではない。兄に較べて、妹の婚約者である渡辺昇は、コンピュータ技師でごく普通の男にみえる。果たしてそうか。
「ときどき、なんだかすごく怖いのよ、先のことが」と妹は言った。(p.247)
妹のこの不安は何なのだろうか。渡辺昇の視点から『ファミリー・アフェア』を再構成することが、解読のヒントになりはしないか。
村上春樹は、世界のなかの見えない亀裂を描いているのではないだろうか。
村上春樹の作品を読み、ハッピーな気分になれるだろうか。否。多くの読者はそのように答えないだろう。癒しだのカタルシスだのとはほど遠い世界にムラカムワールドはある。にもかかわらず、なぜ村上春樹は読まれるのだろうか。
『象の消滅』には、村上春樹の多様性と同時に、世界の深い亀裂が刻印されている、というのは深読みだろうか。誤解を恐れずラカン的にいえば、「不在」=「ないこと」、あるいは「別次元の世界」が、シニフィアンによって表現される、それが村上春樹ではあるまいか。
今、率直に言って、村上春樹作品について、詳細に分析する余裕もまたそこまでの関心もない。「僕」以外の「他者」の視点で読むこと。それが、分析するための一方法であるというところで留めておきたい。
- 作者: 加藤典洋
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 2004/01/17
- メディア: 単行本
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■追記(2005年4月13日)
村上春樹の作品は、「健康すぎると不健康になる典型的な例」(高橋源一郎)というきわめて的を得た表現に出会ったので、付記しておきたい。高橋氏のことばは、村上春樹について言及したのではないが、村上氏は、書くこととスポーツ(マラソンやトレーニング)が両立する健康的な作家であることを考えれば、案外、的を得ているような気がする。