白夜


ルキノ・ヴィスコンティ『白夜』(1957)は、大作『夏の嵐』(1954)と『若者のすべて』(1960)の間の小品と見られがちだが、今回、ニュープリント修復版を観て、この作品の素晴らしさを見直した。


マルチェロ・マストロヤンニマリア・シェルの二人のシーンが、画面のほとんどを占める舞台劇のような構成で、シンプルなストーリーであるにもかかわらず、なぜ、これほど感動するのだろうか。


ドストエフスキー原作のこの映画は、一種のボーイ・ミーツ・ガールものだが、ヴィスコンティ作品では、単純な恋愛映画でないのはもちろんである。


すべてが、セット撮影された『白夜』は、原作のペテルブルクが巧妙にイタリアのヴェネチアに置き換えられている。セット撮影のメリットは、キャメラがすべてのシーンをコントロールできる点にあることは、映画を知るものにとっては常識である。『白夜』も例外ではなく、美しいモノクローム画面として構成されている。


映画は、仕事の関係で転勤したばかりのマルチェロ・マストロヤンニが、上司の家族に付き合って、一日の行楽を終え、バスが運河沿いのこの街に着くシーンから始まる。上司の家と別れたマストロヤンニは、橋の上にたたずむ一人の女性マリア・シェルと、運命的に出う。


マリア・シェルは、眼の見えない祖母と暮らしていた。彼女は、かつて彼女の家で下宿人だった男を一年間待ち、やっとその日を迎えその男との出会いを待っていたのだった。その男とは、回想シーンで登場するジャン・マレーである。キリシア彫刻のような美貌の青年ジャン・マレーは、ジャン・コクトーに愛され、コクトー映画の常連であることで知られ、あまりにも有名だが、その圧倒的存在感のまえには、まだ若いマルチェロ・マストロヤンニ青二才のように視えてしまうのも無理はない。比喩的に言えば、若く細長のマストロヤンニはさしずめオダギリジョーで、ジャン・マレーは無言の佐藤浩市といえようか。


下宿人となったジャン・マレーに一目惚れをしたマリア・シェルには、もはや他の男性など眼中にはない。マストロヤンニが、彼女に接近しても容易に彼女の心に触れることができないのは当然である。


それでも、男が現れないので、マリア・シェルはマストロヤンニの優しさに次第に惹かれて行く。二人が共有する空間は、ダンスホールでの楽しい時間であり、「関節が外れた人形のようなマストロヤンニのゴーゴーダンスだけでも一見の価値がある」(島田雅彦)といわれるように、このダンスシーンは秀逸の一言に尽きる。


ゴンドラに乗った二人は、運河を巡り、幸福なひとときを過ごす。突然に降り出す雪によって、二人の前途は祝福されているように思える。ところが、夢幻的な設定自体がかかえる二人の出会いには、当然のように、別離が訪れる。夢想から現実へ。


雪が降るなかで、橋のたもとに立つ男の姿が見える。マリア・シェルは、脇目もふらずその男のもとへ走って行く。スクリーンの奥では、マストロヤンニが立ち尽くしている。画面の手前の橋のたもとには、ジャン・マレーが無言で立っている。画面の奥から手前に向かってマリア・シェルは走ってくる。そして、待っていた男との抱擁がワンシーンで捉えられる。このシーンのみで、三人の置かれた位置が瞬時に分かる仕掛けになっている異彩を放つシーンである。


モノクロ−ムで撮られたこの小品は、あまりに美しく、悲しい。凝縮されたフィルムの輝きとは、『白夜』を表現することばにこそふさわしいだろう。


それにしても、このフィルムには、映画の古典的技術が集約されている。映像の技術がいかに進化しようとも、『白夜』のシンプルな美を超えることはきわめて困難であると言わねばなるまい。