ナラタージュ


島本理生ナラタージュ』(角川書店)は、いまどきの小説にしては、あまりにも古典的なスタイルで書かれ、硬質な文体と関係の絶対性の心理分析など、作者の年齢にしては成熟した見事なできばえになっている。恋愛と人間関係の本質に迫る作品だ。


ナラタージュ

ナラタージュ


<ナラタージュ>とは、映画用語で「narration(ナレーション)と montage(モンタージュ)から造語されたことばで、画面の外からの声に合わせて物語が展開していく技法。多くは回想場面に用いられる。


つまり、この小説自体が、回想という形式を採用していることをタイトルが示しているわけだ。主人公・工藤泉の、高校3年生から大学生時代が回想される。高校時代に親密になった葉山先生との恋愛関係が中心だが、同窓生の黒川と志緒の関係や、演劇部を通じての友人や後輩たちとの付き合いや、他大学の小野君との関係など、泉の視線で世界が捉えられている。描出される心象風景や、情景の押さえ方がきわめて的確であり、優れた抒情小説になっている。


泉の葉山先生に寄せる思いの強さと、一回り年齢が上で一度結婚したことのある葉山先生の男性としての存在感の曖昧さが、雰囲気のある世界として構築されている。男のずるさと女の賢明さの対比。


大学生・小野君に対する泉の位置は、葉山先生に対する泉の位置に相似しているように見えるが、実は決定的に異なる。なぜか。泉は、映画や文学が趣味で、中学校の体育館で「ゴダールの映画を観ていた」(みうらじゅんからだ。小野君とのセックの後で、泉はタルコフスキー僕の村は戦場だった』のDVDを観たいというのは、普通の男の場合ありえない。


小野君と葉山先生の間で揺れる泉の感情の起伏は次の文章に象徴されている。

彼が着替えるというので、私は立ち上がってお風呂場のほうへ向かった。それから前髪を上げて洗顔料を泡立てた。手のひらの中で粉が泡に変わってふくらんでいく間、小野君に黙れと言われたことが頭の中をめぐっていた。一瞬、彼の目に今まで見たことのない強い怒りが宿っているのを見てしまった。恐怖を追い出そうと目を閉じて、出来た泡をそっと肌に付て擦ると、今度は葉山先生の言葉が洪水のように溢れ出して脳裏から喉に流れて体の底までまっすぐに落ちていくような気がした。いろんな感情が絡み合って静かな混乱がやって来た。
(p276)


泉の心の揺れが手にとるように解かる、かのように錯覚させるほど巧く書かれている。
葉山先生への熱い思いは、いつも微妙なところではぐらかされる。葉山先生の男としての優柔不断さが、こでれもかというほど書き尽くされている。


泉と葉山先生の最後の逢瀬は、実に美しく切ない。ビクトル・エルセの『エル・スール』のDVDを二人で観て別れる。そして、葉山先生は父親から譲り受けた懐中時計を、泉に思い出の品として贈る。小津安二郎東京物語』を想起させるシーン(映画のように)である。


泉の後輩である柚子の突然の自殺は、現代社会の理不尽さを象徴している事件が背後にあり、また、泉が不審な男にストカーのように付きまとわれる情景なども盛り込まれ<いま>という時代の不安定さをもしっかり書き込まれている。


ナラタージュ』において、島本理生は大きく成長した。同世代の仲間だけの狭い空間ではなく、一回り上の葉山先生の世代や、小野君の故郷の家族、そして、泉自身の両親。夏休みに、両親が生活するドイツを訪れる場面は、いかにも、若者世代の感性が異国を視ることの軽やかな体験として、実にさりげなく綴られる。


17歳でデビューした学生作家は、『ナラタージュ』において堂々たる女性作家に成長した。『ナラタージュ』が次の直木賞候補になることは確かだろう。知性ある女性作家の成長する姿は、まぶしく輝いている。嬉しい収穫であった。