飆風(ひょうふう)
- 作者: 車谷長吉
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2005/02/08
- メディア: 単行本
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『桃の実一ヶ』『密告(たれこみ)』『飆風』の私小説三篇と、講演記録『私の小説論』が収録されている。『私の小説論』は、車谷長吉が本音で語っているので、「人権」派の人達や、人間中心のヒューマニストは嫌われそうだ。
賀茂真淵のことば
《凡天地の際に生きとしいけるものは皆虫ならずや、それが中に人のみいかで貴く、人のみいかむことあるにや。》
を引き、人間中心主義を批判する。食物連鎖でいえば、埴谷雄高の『死霊』第七章「最後の審判」の世界に連なる。
車谷氏が子どもの頃、
その頃、横井英樹という人がいて、次から次へと会社の乗っ取りをやり、乗っ取り王と言われていました。私が小学生だった頃のことですが、お袋は「おまはんも人の会社を乗っ取るような男になりな。」と。
これがお袋が小学生の私に突き付けた命題でした。併し私は人の会社を乗っ取ることは、ついに出来なくて、人の魂を奪い取ることばかりして来ました。作家になるということは、自分の魂を発見し、他人の魂を奪い取る(書く)ことです。(p196)
この文章から、今注目されているホリエモンによるメディアを巡るM&Aとよく似ていることが連想される。もちろん、資本主義社会では、これが常識だから敢えて私見は、はさまない。
車谷氏は、このような拝金主義の世の中から逃れ「世捨人」になりたかったのだ。
『私の小説論』で引用される作家は、漱石、樋口一葉、深沢七郎、小林秀雄、カフカ等々、『文士の魂』で披瀝された読書遍歴の続編といえる。
作家とは悪人であり、
利巧者には小説は書けません。阿呆になれないと、小説は書けません。
利巧者とは頭はいいけれど、頭の弱い人です。頭が強い人じゃないと、小説は書けません。まず、一番に作者みずからが傷つかなければなりません。(p198−199)
と断言する。「善人が突然悪人になる」というテーマが、漱石やドストエフスキーの作品の主題であり、原因は、「恋と金」にあるという。そういえば、『銭金について』というエッセイもあった。
冒頭の一篇『桃の実一ヶ』は、車谷氏の母から視た三人の子どもたちへの愚痴が、飾磨方言の語り口調で記述され、母からみれば三人とも極道者であり、長男はへたれ作家(車谷氏)、長女は、独身のままのすねかじりで五十台半ばの不貞腐れ、次男は四十過ぎの独身で、福祉に専念している極道者。すべてが因縁によるもので、母の家(車谷家)は子孫が絶える、と嘆く。
飾磨方言で語られる内容は陰鬱だが、読むほどに引き込まれる。いわば、独特の自虐的な私小説で、母の視点で家族を俯瞰する不思議な味わいの小説になっている。
『密告』は、車谷氏の分身である生島嘉一が、大学卒業後、広告代理店に勤務していた時期の、友人との確執が描かれる。友人の恋人・愛人・新愛人。友人への嫉妬と、自分の願望との相克。あまり、あと味がいいとは言いがたい作品だが、読むほどに生きることの凄絶さが、にじみ出てくる作品。
『飆(ひょう)風』は、結婚した高橋順子さんとの生活を、赤裸々に描く私小説。
ここまで書くか?いや書いてこそ、車谷氏の面目躍如たるところといえよう。
埴谷雄高に言及しているところがある。引用する。
これらが、車谷長吉の最後の「私小説」とは思えないけれど、徹底した私小説を書き続けているのは、いまや車谷氏しかいないことを思えば、私小説の極北を書くことが、車谷長吉の作家としての使命と期待したい。
- 作者: 車谷長吉
- 出版社/メーカー: 新潮社
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