飆風(ひょうふう)


『飆風』(講談社)は、車谷長吉最後の「私小説」らしい。


飆風

飆風


『桃の実一ヶ』『密告(たれこみ)』『飆風』の私小説三篇と、講演記録『私の小説論』が収録されている。『私の小説論』は、車谷長吉が本音で語っているので、「人権」派の人達や、人間中心のヒューマニストは嫌われそうだ。


賀茂真淵のことば
《凡天地の際に生きとしいけるものは皆虫ならずや、それが中に人のみいかで貴く、人のみいかむことあるにや。》
を引き、人間中心主義を批判する。食物連鎖でいえば、埴谷雄高の『死霊』第七章「最後の審判」の世界に連なる。


車谷氏が子どもの頃、

その頃、横井英樹という人がいて、次から次へと会社の乗っ取りをやり、乗っ取り王と言われていました。私が小学生だった頃のことですが、お袋は「おまはんも人の会社を乗っ取るような男になりな。」と。
これがお袋が小学生の私に突き付けた命題でした。併し私は人の会社を乗っ取ることは、ついに出来なくて、人の魂を奪い取ることばかりして来ました。作家になるということは、自分の魂を発見し、他人の魂を奪い取る(書く)ことです。(p196)


この文章から、今注目されているホリエモンによるメディアを巡るM&Aとよく似ていることが連想される。もちろん、資本主義社会では、これが常識だから敢えて私見は、はさまない。


車谷氏は、このような拝金主義の世の中から逃れ「世捨人」になりたかったのだ。
『私の小説論』で引用される作家は、漱石樋口一葉深沢七郎小林秀雄カフカ等々、『文士の魂』で披瀝された読書遍歴の続編といえる。


作家とは悪人であり、

利巧者には小説は書けません。阿呆になれないと、小説は書けません。
利巧者とは頭はいいけれど、頭の弱い人です。頭が強い人じゃないと、小説は書けません。まず、一番に作者みずからが傷つかなければなりません。(p198−199)


と断言する。「善人が突然悪人になる」というテーマが、漱石ドストエフスキーの作品の主題であり、原因は、「恋と金」にあるという。そういえば、『銭金について』というエッセイもあった。


冒頭の一篇『桃の実一ヶ』は、車谷氏の母から視た三人の子どもたちへの愚痴が、飾磨方言の語り口調で記述され、母からみれば三人とも極道者であり、長男はへたれ作家(車谷氏)、長女は、独身のままのすねかじりで五十台半ばの不貞腐れ、次男は四十過ぎの独身で、福祉に専念している極道者。すべてが因縁によるもので、母の家(車谷家)は子孫が絶える、と嘆く。


飾磨方言で語られる内容は陰鬱だが、読むほどに引き込まれる。いわば、独特の自虐的な私小説で、母の視点で家族を俯瞰する不思議な味わいの小説になっている。


『密告』は、車谷氏の分身である生島嘉一が、大学卒業後、広告代理店に勤務していた時期の、友人との確執が描かれる。友人の恋人・愛人・新愛人。友人への嫉妬と、自分の願望との相克。あまり、あと味がいいとは言いがたい作品だが、読むほどに生きることの凄絶さが、にじみ出てくる作品。


『飆(ひょう)風』は、結婚した高橋順子さんとの生活を、赤裸々に描く私小説
ここまで書くか?いや書いてこそ、車谷氏の面目躍如たるところといえよう。
埴谷雄高に言及しているところがある。引用する。

その頃、私は埴谷雄高の『死霊』(講談社)全巻を読んで、気持の半分が生き返ったような気がしていた。(p133)


これらが、車谷長吉の最後の「私小説」とは思えないけれど、徹底した私小説を書き続けているのは、いまや車谷氏しかいないことを思えば、私小説の極北を書くことが、車谷長吉の作家としての使命と期待したい。


文士の魂

文士の魂

銭金について

銭金について