ポオとヒッチコック

著名なポオの小説『盗まれた手紙』について、ラカンの「《盗まれた手紙》についてのセミネール」(『エクリ1』)*1を読み、いささかきつねにつままれた思いを抱きながらも、内田樹の『現代思想のパフォーマンス』「Ⅴ ジャック・ラカン」の解説から、その解読の面白さが視えてくる。「手紙」の内容は読者には一切わからない。分からなくとも、『盗まれた手紙』の古典的輝きは失われない。ラカンセミネールよりも、また、内田樹の解説よりも、皮肉なことにはるかに『盗まれた手紙』が面白く、実に刺激に満ちた作品であることをあらためて実感できた。これは、どういうことだろう。


現代思想のパフォーマンス (光文社新書)

現代思想のパフォーマンス (光文社新書)


同じような体験は、スラヴォイ・ジジェク編著『ヒッチコックによるラカン』(トレヴィル)*2を読んだ時にも感じた。『ヒッチコックによるラカン』は、ヒッチコックファンにとって、ラカンを理解する上でもっとも分かりやすい映画評であり、ラカン論でもある。しかし、ジジェクラカン映画論よりもはるかに、ヒッチコック映画の方が面白いというアイロニー


これは、一体どういうことだろう。結論を急げば、芸術作品の分析や解説よりも、当該芸術作品がはるかに優れていることの証明にほかならない、ということか。


ヒッチコック×ジジェク

ヒッチコック×ジジェク

 


もちろん、最新刊のスラヴォイ・ジジェク編『ヒッチコック×ジジェク』(河出書房新社)を入手した。早速、冒頭のジジェクによる「序論」を読む。


ジジェクによれば、ヒッチコック作品は、
(1)『三十九夜』以前の映画。
ヒッチコックが彼自身の観念になる前のヒッチコック
(2)1930年代後半に英国で撮られた映画。
『三十九夜』から『バルカン超特急』まで。「リアリズム」
(3)「セルズニック時代」。『レベッカ』から『山羊座のもとに』まで。「モダニズム
(4)1950年代および1960年代初頭の大作群。「ポストモダニズム
(5)『マーニー』以降の映画。崩壊の映画。


ヒッチコック的対象とは、①マクガフィン、②<現実界>の断片の物質的現前、③交換対象ではなく、不可能な享楽の無言の具現化、の3つがあるとジジェクは指摘する。①マクガフィンは<対象a>、②循環する交換対象は、不可能性を示す、③はФ、<現実界>の無感覚的・想像的対象化。これでは、よく分からない。


これを『ヒッチコックによるラカン』でみれば、

ヒッチコック作品の全発展過程は・・・(中略)・・・プロットを錯綜させる謎としての「マクガフィン」、・・・(中略)・・・象徴構造を介して主体相互を結びつけ、かつ構造の完結を阻む交換対象が、きわめて明白な仕方で優位を占めている。・・・(中略)・・・さらに別種の相貌をまとった対象が大きな場を占めるようになり、おぞましく、また不可能な享楽を現在化させることになる。(p339)


少し分かりやすくなった。


ヒッチコック的世界にあっては、「恋愛は深い感情から生れるのものではなく、外的で偶然的な出会いから生れる」(『三十九夜』『バルカン超特急』)また、「カップルは幸福に結ばれるが、その代償として第三の、真に魅力的な人物が犠牲になる」(『汚名』『疑惑の影』)、「協力関係と恋愛関係が互いに排他的になっている」(『舞台恐怖症』『めまい』)というように分類されると、さらに分かりやすくなる。


ジジェクの次の解説が参考になる。

熱狂的ファンの態度はたんなる転移関係を示しているにすぎず、「知っていると想定された主体」として機能しているのである。さらに次のように付け加える必要があるだろうかー
ヒッチコックの誤りや不整合を強調する人々の姿勢よりも、ファンのほうがずっと多くの真実を含み、理論的にも、はるかに生産的だ、と。要するに、他の場合にもまして、ここでこそ「騙されない者は迷う」というラカンのモットーが有効である。何らかの理論的真実を生み出す唯一の方法は、転移によるフィクションを最後まで追いかけることである。
(『ヒッチコック×ジジェク』p21)


いずれにせよ、ヒッチコック作品は「転移によるフィクションを最後まで追いかける映画」であり、ラカンジジェク的解釈あるいは分析対象になり得ること自体が、優れた作品の別名であろう。


とすれば、ポオの『盗まれた手紙』の転移する「手紙」とは、ヒッチコックマクガフィンに該当するといえるだろう。手紙には何が書かれているが明らかにされない。また、その必要性もない。単に転移を反復することで、手紙の所有者が、抑圧から解放されるというわけだ。上流夫人→大臣→デュパン→警視総監→上流夫人と、手紙の所有者が移ることは、「転移によるフィクションを最後まで追いかけること」に相当する。


この項は、ポオの他の作品の再読を促し、かつヒッチコック作品のを再見を要請する。
今の私にとって深い関心をもてる問題であり、継続して確認して行きたい。