「赤」の誘惑(読了)


蓮實重彦『「赤」の誘惑』を読了した。


「赤」の誘惑―フィクション論序説

「赤」の誘惑―フィクション論序説


本書を、読み進めてみると「フィクション」のなかの「赤」を抽出することが、果たして「フィクション」一般として普遍性を持ち得るのかどうか、疑問になってきた。蓮實的言説における「赤」へのこだわりは、「ジョン・フォード論」における「白」へのこだわりに通じるもので、きわめて恣意的である。実際、「フィクション」を特徴づけるものが「赤」である必然性が本書から読み取れない。


蓮實重彦の恣意性によって選ばれたテクストが、「赤」を際立たせていることは証明されているが、では、「赤」以外の色が「フィクション」の主題論的あるいは説話論的な言説として成立しないと断定できるかと問わねなるまい。とは言っても、「赤」に象徴させながら実は「フィクション」を歴史的に解読しようとする著者の姿勢が伺えるのは、「詩」が危機であるように「散文」もまた危機に陥っているからだ。


エクリ 1

エクリ 1


さてしかし、「Ⅹ「赤」の擁護」に至り、ポオ『盗まれた手紙』の解読を、ラカンセミネール批判にからめて、デリダラカン批判などを援用しながらも、ポオにおける「赤と黒」という主題を、デュパン三部作から抽出してくる方法は、いつもの蓮實的レトリックにほかならず、「フィクション論」としてラカンを批判してもほとんど無意味なのである。そのことは拙ブログ(2005−01−29)で既に指摘した。「批評」は所詮、原テキストを超えることはできない。


蓮實重彦が、「赤」にことよせて、様々な作品から色彩、とりわけ「赤」の擁護をすればするほど、その恣意性に慄然とさせられるのみで、批評はテクストを超えることは決してできないことを逆説的に証明してしまった。その意味で、『「赤」の誘惑』は刺激的であるが面白みに欠けると言わねばならないだろう。「翻える白さの変容」としての「ジョン・フォード論」*1に及ばないのは、映画は色彩を眼で視るという具体的行為から分析できるが、「フィクション」は言葉で綴られている、あるいは、「シニフィアンの連鎖」で書かれていると言ってもいいだろうが、色彩の分析には不向きなのだ。


反=日本語論 (ちくま文庫)

反=日本語論 (ちくま文庫)


従来の漱石論と一線を画した傑作評論『夏目漱石論』(青土社、1978)から、トンデモ本になってしまった『大江健三郎論』(青土社、1980)まで、テクストと戯れてきた著者の到達点が『「赤」の誘惑』だったとすれば、『反日本語論』以降の蓮實重彦は、一貫して成熟することをを拒否してきた。既に70歳を過ぎた著者にとって、「理論的言説」に否をつきつける挑発的な書物である。「理論の性急さ」よりも「批評の余裕」の方法をとる蓮實氏には、当然ながら体系的思想は構築されない。繰り返しになるけれど、「批評の余裕」は、『反日本語論』『夏目漱石論』などの「評論」と、『映画の神話学』から始まる一連の「映画批評」に実現されている。なによりも、これらの批評的作品は、細部を際立たせる面白さに満ちている。


映像の詩学

映像の詩学


蓮實氏の著書の場合、読むことの快楽・楽しみが得られるかどうかが、決め手になる。このような書き手がかつて存在しただろうか。誰もが理論的に整合性を持たせる位相に到達し、理論でテクストを解釈する、そのようなパターンは、蓮實氏にはまったくない。これからもあり得ないだろう。「批評の余裕」として読者に快楽を誘う書物を、期待したい。それが、『ジョン・フォード論』であり、『フローベール論』になるはずだ。


ソシュール 一般言語学講義: コンスタンタンのノート

ソシュール 一般言語学講義: コンスタンタンのノート


蓮實重彦が本書でも言及しているソシュール『一般言語学講義』が、コンスタンタンのノートから、新訳として東大出版から刊行されたので、いわば白紙の状態でソシュールを読むことができる。

*1:蓮實重彦『映像の詩学』(筑摩書房、1979)