詩人と女たち

チャールズ・ブコウスキーの『くそったれ!少年時代』『ポスト・オフィス 』『詩人と女たち』は、日本文学風にいえば「私小説」ということになるだろう。ブコウスキーの少年時代、青年時代、壮年時代のそれぞれ自伝になっている。これに『勝手に生きろ! 』と『パンク、ハリウッドを行く』*1を加えて自叙伝五部作が、詩人による長編小説6作のうち『パルプ』*2を除き、ヘンリー・チナスキー名のドキュメンタリー私小説になっている。ブコウスキーは、無頼のプロレタリア労働者から、詩人、小説家になった。


詩人と女たち (河出文庫)

詩人と女たち (河出文庫)


ブコウスキー的世界が、日本文学の「私小説」と異なるところは、陰湿な作風ではなく、乾いた描写になっているところだろうか。無頼派にして、人生を肯定的に描くと、ブコウスキー的作品になる。無頼派作家は人気があるのだ。太宰治坂口安吾織田作之助など日本の戦後無頼派にしても然り。とりわけ、太宰人気は不滅である。まあ、こと太宰に関しては、単に無頼という次元ではなく、小説のうまさにおいて、抜群の才能を有していたからだろう。


しかしながら、ブコウスキーには太宰のような天賦の才能があったとは思えない。むしろ、ブコウスキーの生き方そのものが、きわめて破天荒であり、魅惑的であったからこそ、後に、作品に結実したといえる。なかでも『詩人と女たち』は、彼の最高傑作にして読者に官能的な愉悦をもたらす作品といっていいだろう。


ブコウスキーは、誰もが潜在的に抱いている欲望を羞恥心なく、あっけらかんとした文体で、露呈した点にあるだろう。中年あるいは老年になっても、こんなパンクな生き方ができればと思わせる、一種男性にとっての「理想的な生きかた」を示しているからだ。欲望全開の小説、しかも、ほとんどが自らの体験にもとづいているから、読むほどに驚いてしまう。


『詩人と女たち』の詩人チナスキーは、本が売れ始め、名声があがるとさまざまな場所で、
詩の朗読会を持ち、集まる女性たちとは際限なく付き合い、いわば人生絶好調の時期を綴ったもので、アウトサーダー作家の面目躍如たる光景が、虚飾なく、かつそっけなく記述される。記述のスタイルは、自伝的全作品が同じような視点で描かれる。なぜ彼は、無頼的な生活を送るようになったのかは、『くそったれ!少年時代』の中にある。あえて解釈すれば、父親の虐待からくる父との葛藤が、トラウマとしてその後の放浪人生を決定づけたといえるのかも知れない。


くそったれ!少年時代 (河出文庫)

くそったれ!少年時代 (河出文庫)


無頼を生涯続けることは困難だ。日本の無頼派の多くは若死している。でも、ブコウスキーは71歳で白血病死するまで、パンクを貫きとおした。立派である。無頼だの放蕩だのは、誰もがあこがれながら実際にはそのような行動はできないものだ。生活がかっているからだ。家族を持つ者には家族の桎梏がある。独身の人も生きて行く上で、何らかの組織に属している。フリターになれば、ブコウスキーのようにかっこよく活きることができるとは限らない。だからこそブコウスキーとは、世の男たちの羨望的生き方の見本に映るのである。


『ポスト・オフィス』は、青年期に延べ17年間勤めた郵便局での過酷な仕事をしながら、酒に溺れ、女性と同棲し、競馬に金を使ってしまう一見、凡庸な堕落した男を描いているようで、一方では、無垢な感受性豊かな精神を持ち合わせている男の自伝。


ポスト・オフィス (幻冬舎アウトロー文庫)

ポスト・オフィス (幻冬舎アウトロー文庫)


凡庸な普通の青年の生き方そのものを描きながらも、ラストで、

「朝、朝になっていて、それでもおれはいきていた。
小説でも書くか、と、おれは思う。
それからおれはそのとおりにした。」(幻冬舎文庫、p289)


と書き、実際に作家となってしまった。
最初に書いた自伝的長編が『ポスト・オフィス』だった。できすぎた話である。



ブコウスキー作品は、書かれた順ではなく、『詩人と女たち』『くそったれ!少年時代』『ポスト・オフィス』と私は読んだ。パンク爺としてブコウスキーのように生きぬくことは、とてもできないけれど、その精神は見習いたいと渇望する作家だ。


いま、ふと思い出したが、この突然変異のような作家は、日本でいえば深沢七郎に似ているのではないか。突然現れて、文壇を恐怖させた『楢山節考*3の異様な世界と、意図せずに自然のまま記述された作品群がある。何かと話題を呼んだ深沢七郎こそ、日本のブコウスキーなのであるまいか。深沢七郎は本音で、小説やエッセイを書いた。飾ることなく、自らをさらけだした。だからこそ、文壇の大作家たちは、恐れたのだ。


ブコウスキーを読むことに意味があるとすれば、将来が見えない、先が見えない世界のなかで終わりなき日常を生きながら、日常からふと逸脱することができるのではないか、と思わせるところにある。パンクならパンクでいい、それを老人になっても続ける意思だ。ヤンキーでもいい、それを老人になっても続けることだ。


年齢相応などという世間的なものさしで計るのではなく、己の活き方を貫くことだ。結果として、どう転ぶかわからない。そんな活き方ができる者のみが、閾を超えることができることをブコウスキーが身を持って示したのだ。


もちろん、快楽の極北とは死にほかならいことをブコウスキーは知っていた。死の自覚なくして無頼を気取ることを偽善という。



勝手に生きろ!

勝手に生きろ!