ネバーランド


映画「ネバーランド」オリジナル・サウンドトラック


マーク・フォスター監督作品『ネバーランド』は、劇作家としてのジェームズ・バリが、不朽の名作『ピーター・パン』を舞台で公開するまでの背後のエピソードを、「死と喪失」のテーマのもと、きわめてオーソドックスに描いた作品になっている。


ジェームズ・バリを演じるのが、個性派俳優ジョニー・デップであり、ピーター少年をはじめ男の子5人の母親で未亡人のケイト・ウィンスレットとの、純粋な心のふれあいを対象とした点でも、近年まれにみるピュアな作品である。


ケイト・ウィンスレットの母親として、往年の名女優ジュリー・クリスティが、デュ・モーリエ夫人に扮しており、当初は劇作家バリとの親密な付き合いを嫌悪するが、最後には理解を示すというおいしい役どころ。また、劇場支配人には、演技派の極めつけダスティン・ホフマン、さらにコナン・ドイル役はイアン・ハートと脇役陣も多彩である。ピーター・パン役がケリー・マグドナルドで、初演からこの役を女優が演じていたことも、『ネバーランド』で示される。


バリの別荘で繰り広げられる、子供たちとの空想と現実が交錯した遊戯から、バリは、『ピーター・パン』の劇作化を思いつくのだが、時には海賊だったり、インデアンだったりで、子供の空想的世界そのものである。幼いこどもは、同じお話を反復して何度も聞きたがるが、ここでも、こどもたちと同じようなパターンの遊びを、あれこれ設定を変えて、反復している。別荘での至福の時間が、こどもたちの母親が病気になるとことと交換されるのは、悲劇であるにもかかわらず、別離を経験することによって、こどもから大人へと成長する物語として、優れたビルドゥングス・ロマンとなっていることと照応している。


それにしても、あまりにも優しいバリ=ジョニー・デップが、『ピーター・パン』の成功と引き換えに、妻との離婚をもたらし、こどもたちの母親の病気と交換されるのは運命のアイロニーだろうか。むしろ、バリは、そうなることを望んだとも想える。「死と喪失」が、マーク・フォスター監督のテーマであることは、前作『チョコレート』で示されたとおり、刑務所の看守が、死刑を宣告された男の妻ハル・ベリーに接近するというかたちで、描かれていたことを想い出してみよう。


映画は、20世紀初頭のロンドンの雰囲気を美しく再現している。とくに人々が公園を散策する風景や登場人物の衣装などに。演劇界を社交場とする上流階級にとって、観劇は娯楽であり、中間に介在する演劇批評によって、観客動員を左右していたことも、押えられている。初演の幕間から、観客の様子をのぞくバリの心境は、観客の表情に一喜一憂することが、冒頭に失敗した『リトル・メアリー』の初演風景を提示することで、あらかじめ観るものに示される。


厳粛なるロンドン社交界の紳士・淑女たちに、『ピーター・パン』を偏見なく素直に見させるのが困難であると予見したバリは、孤児院のこども25名分の席を、あらかじめダスティン・ホフマンに確保させる。この子供たちの、舞台への反応につられて大人たちも、幻想的世界に参入することができたのだった。バリは単なる芸術家のみではなく、自己演出にも長けた人物として設定されている。


それにしても、病気が重いケイト・ウィンスレットの前で、出前の『ピーター・パン』を演じさせ、ネバーランドを見せるシークエンスには、私も危うく泣きそうになった。誰もが感銘を受け、記憶に残る名シーンとなるだろう。ケイト・ウインスレットは、清楚で薄幸の美女でありながら、生活感をにじませる稀薄な存在として魅惑的だった。


『ピーター・パン』とは、大人になることを拒否した少年だが、ネバーランドという空想の世界においてのみ可能であったわけで、少年は青年となり中年から老年に至りやがて死すという人間の宿命は回避することはできないからこそ、不滅の少年に同化する願望が、虚構であることを前提として輝き続けてきたのだ。


いつまでも成長しないピーターパンが住むネバーランドとは、劇作家バリにとって、何だったのだろうか。家庭の崩壊と引き換えに演劇で成功するというパターンは、バリの時代と100年後の現在でも、芸術家の宿命としては変わらない。しかし、バリ自身が、大人になることを拒否した永遠の少年の心を持っていたことの証明でもあろう。


あまりにも、優しく無垢なバリを演じたジョニー・デップは、作品の内容にあわせて変貌する俳優であり、このフィルムでも20世紀初頭のロンドンの演劇界にすんなり入り込んでいるのは、見事というほかない。バリは『シザーハンズ』の主人公の、あの悲哀に満ちた表情の延長にある役どころであるといえる。


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