文学の徴候


文学の徴候

文学の徴候


斎藤環『文学の徴候』(文藝春秋)は、臨床医師が書いた「文芸批評」として、通常のテクストを読む快楽は得られなかったことを、まず、告白しておきたい。


読みながら絶えず違和感を抱いてしまう。文学作品に、精神分析的思惟方法で、対象を解読する方法は、テクストを超えて、作家の病理まで露呈させてしまうからだ。もちろん、斎藤環は、あくまでテクスト批評に徹したと自己弁明している。ラカン的世界に依拠しながらも、臨床経験が背後にあることがしばしば言及される。ラカニアン的態度に立ち、「正しい『読み』は常に一つ」として、本書においても、「私は一貫して『正しい読み方』しかしていない」と自信に溢れている。

私の村上評価は、「ねじまき鳥クロニクル」を境として、ほとんど180度近く変化した。・・・(中略)・・・私にとって重要なのは、この作品を嚆矢として、村上作品の「解離」ぶりは、いっそう洗練されていったという点である。・・・(中略)・・・
解離の導入がなぜ必要であったか。それは私がかつて述べたような、境界例的「分裂」から多重人格的「解離」へ、という、時代精神の変化を反映した流れであった・・・(p115)


これは、『第七章「ライ麦畑」の去勢のために』からの引用だが、斎藤氏は、サリンジャーを「境界例」の作家として捉え、全世界を自分の基準で、善/悪、敵/味方に分ける手法で書き、そこから進展していないのに較べて、村上春樹は、境界例的「分裂」(『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』がその典型)から、多重人格的「解離」へ変化しているにもかかわらず、なぜ、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』を翻訳したのか、という疑問に迫る過程で言及する箇所である。

彼(村上春樹)の素晴らしさは、その根源に癒しがたい暴力への志向を抱え込みながらも、懸命にそれを飼い慣らす術を模索しつつあることだ。圧倒的な性と暴力を描きながらも、作品のリアリティの比重をそこだけに依存しないこと。その困難な手続きに村上氏は成功したのだろうか。(p116)


少なくとも、村上春樹は、斎藤環よりはるかに遠くへ行っている。「分裂」と「解離」で定義しようが、村上春樹の最高傑作は、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』であり、『ねじまき鳥クロニクル』において「解離」ぶりが洗練されたことと、作品の評価は別次元にあることは、村上氏の読者なら誰もが知っている。


急いで付け加えれば、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は、隠喩的作品という意味であり、換喩的な作品では『海辺のカフカ』が最高傑作に限りなく近い。二作に共通するのはパラレルな世界を描いていることであり、村上春樹は、パラレルな世界を隠喩的あるいは換喩的に描くとき、作品の完成度が顕著に上昇するといっていいだろう。


斎藤氏によれば、冷戦終結後以降の世界では二元論(分裂)ではリアリティを維持できない、その結果選ばれたのが「解離」である、という。

自分自身が虚構内存在であることに自覚的な存在を「神経症」と呼ぶ・・・(中略)・・・
境界例とは、なによりもまず、精神分析的知識で完全武装した患者である。彼らは自らの症状の精神病理的なメカニズムについて過剰に詳しい。そして、それゆえにか、いかなる精神分析にも、精神医学的な治療に対しても、最後まで抵抗する患者なのである。
(p116−117)


医者と患者という立場からみれば、医者は患者にたいして圧倒的な権力をもつ。患者が、病理に関する知識を得たいと思うのが一般だろう。それを、「時代精神の変化を反映した流れ」により、冷戦後のシニシズムの根拠から、患者が自分が患者であることに自覚的でありすぎると、換言すれば患者が情報を持ちすぎると、原因であるトラウマについて語り終えても、完全に治癒しないというシステムでは、精神分析そのものに、何らかの間違いがあるのではないか、と疑ってしまう。医師の知的権力が、患者の快復を阻害していることになりはしないか。


高橋源一郎がいみじくも指摘しているとおり、精神分析論で「文学」を語るのは危険すぎる。その典型が、斎藤環『文学の徴候』であるように思えてならない。臨床医は、患者を治癒することを目的に精神分析をするが、文学作品は治癒される必要がない。


特に、この村上春樹の章や、古井由吉の章『内因性の文学』など、文学の側から見ると、斎藤氏の分析は納得できない。フロイトラカン的思想で武装して、文学の世界を解読したつもりらしいが、実は、何も語っていないことに等しい。本書で取り上げている作家たちを、日常的に読んでいる読者にとって、斎藤説は理解しがたいし、文学の深さに届いていない。テクストに「正しい読み方」などあり得ない。極端にいえば、読者の数だけテキストの読み方がある。


なるほど、作家を精神分析の概念にあてはめて、類比する興味は尽きないだろう。しかし、斎藤氏が批評可能なのは、斎藤氏のレベルに合ったサブカルチャー系の一部作家までだろう。作家の想像力を甘くみてはいけない。テクストを分析すると言いながら、作者を病理学的に分析する結果となっているのは、石原慎太郎を「中心的気質」と断定しているところなどからも、分かることだ。テクストとは、精神分析のために書かれたものではなく、読者に向かって書かれているのだ。

私自身(斎藤氏)は、典型的とも言える分裂気質者である。情緒的な冷たさと孤独癖があり、体験の処理に際しては過去参照型よりは未来予測型で、微妙な変化や雰囲気に敏感、このため常に一定のアンバランスな緊張のもとで生きている。診療や分析というフレーム抜きでは、日常の対人関係においては共感性の欠如と鈍感さゆえのトラブルが多い。(p306)


この著者自身の告白は、重要である。医者といえども完璧な人間ではない。「診療や分析というフレーム抜きでは、日常の対人関係においては共感性の欠如と鈍感さゆえのトラブルが多い」ということは、逆にいえば、患者に依拠しており対象を分析することで自らの存在を確認しているといえる。本書は、その意味では、<患者としてのテクスト>を斎藤流に分析してみせた診断結果にほかならない。臨床とは医師と患者の個別的関係であるはずだ。とすれば、臨床的分析を<開かれたテクストとしての文学>に応用することへの危うさを感じる。


文脈病―ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ

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