家族の痕跡


家族の痕跡―いちばん最後に残るもの

家族の痕跡―いちばん最後に残るもの


斎藤環『家族の痕跡』(筑摩書房、2006)は、「家族」の常識を顛倒させながらも、その結論らしきところでは、「子どもの成長におけるエディプス・コンプレックスの重要性は、どれほど強調してもしたりないほどだ。」と、いかにも精神分析の臨床医らしいものとなつている。


結論からみれば、常識的・保守的にみえるが、そこにいたる過程そのものが、実に刺激的であり読みながら、思わず納得する言説が多く、「家族」や「夫婦」のあり方について深く考えさせられた。

ジェンダー的な「愛の形式」から次のように著者は言う。

男性にとって「愛」とは「所有」を意味する。しかし女性にとっては「愛」は「関係」を意味するのだ。(p.212)


「所有」と「関係」では、すれ違うわけだ。恋愛とは所詮、「幻想」にすぎない。吉本隆明のことばを借用すれば「対幻想」ということになる。それぞれが、異なる「幻想」を抱いている。「幻想」によって「家族」が形成されるとすれば、継続することに困難が伴うのは当然ということになる。


とりわけ、面白く読んだのは酒井順子さんの「負け犬」論議だった。

家族制度を支えている幻想とは、「対幻想」ではなく、「エディプス三角」なのではないか。そして、こうした構図はフロイト精神分析を創始した100年前から現在に至るまで、基本的には変わっていないのではないか。このことを私に痛感させてくれた本が、酒井順子氏によるエッセイ『負け犬の遠吠え』である。(p.105)

負け犬の遠吠え

負け犬の遠吠え

自分にも母親にもペニスはないことに気付いた女の子は、これを契機として母親を見捨て、彼女の欲望は父親へと向かう。これが生涯続くとされる女性のエディプス・コンプレックスだ。最初の「ペニスを持ちたい」という願望(=羨望)は、セックスでペニスを享受したいという願望を経てペニスの代理物としての「子ども」を生みたいという願望へと変換されていく。
・・・(中略)・・・
精神分析家は、現象に対して、ある解釈を投げかける。その解釈がたくさんの「抵抗」に遭いながらも、否定しがたいリアリティを獲得するとき、精神分析は成功したと言えるのだ。その意味では酒井氏のエッセイも、一種の精神分析として有効に機能したと言えなくもない。(p.111)


「負け犬」のリアリティを支えているのが、「世間」であり、それは「ひきこもり」にも妥当する。「独身」「一人っこ」「子なし」「ひきこもり」などに対する「世間的基準」が背景にあるから、「世間」と「家族」の対立構造の文脈ができあがる。


本書のもうひとつの問題提起。義務としての「労働」は自明のこととされているが、はたしてそうか、と斎藤氏は、疑問を投げかける。

働くことは加害なのか。そう、実は私はそう考えている。繰り返すが、働くことがまるで自明のごとく素晴らしいとみなすことはできない。卑近なところでは、社会保険庁が、癒着業者との間で莫大な年金を循環させるシステムを構築した例がある。(p.150)


「謝れ職業人」(p.150−155)という匿名の詩を引用し、以下のように述べる。

勤勉に働くことの有害性に対する、これほど明晰で心に迫る告発を私は初めて読んだ。
・・・(中略)・・・
個人としての私は「勤勉に働くこと」の素晴らしさを、どうしても否定できない。しかし、これはやはり臆見ないし偏見の一種なのではないか。(p.155)

このように、「勝ち組」「負け組」区分への根底的疑義に発する「労働すること」*1への問いかけにみられるように、斎藤環『家族の痕跡』は、世間の常識に挑戦する過激な「家族論」になっている。
たしかに結論は「家族擁護」に落ち着いているようにみえるけれど、「家族」とは「私」=「個人」にとって何であるのかを、自ら考えさせるきわめて刺激的な書物であった。*2
新年の読書の収穫の一つ。


文学の徴候

文学の徴候

文脈病―ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ

文脈病―ラカン・ベイトソン・マトゥラーナ

*1:「労働すること」については、『故郷七十年』の「幸いにして私はその後実際生活上の苦労をしたので救われた。」という柳田國男の経験を尊重したい気持ちが強い。

*2:「家族」とは、私にとっては回答のない課題であり、生きている限り続く問題でもある。