他者と死者

他者と死者―ラカンによるレヴィナス

他者と死者―ラカンによるレヴィナス


内田樹『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』(海鳥社、2004)を読了。


内田氏は、「まえがき」で「彼らがほんとうは何を言いたいのか、私にはよく分からない」と、まず、読者を混乱させる。いや、安心させているのかも知れない。私自身、レヴィナスはもちろんラカンも読んでいない。だから、先入観なく読んだ。


レヴィナスラカンの難解さについて、

「何がいいたいのか分からないように書く」のは、彼らの側に「言いたいことがある」というよりはむしろ、読者に「何かをさせる」ためである。(p20)


と書く著者は、二人が提起した「謎」に内田流の解釈を付けたのがこの『他者と死者』である。前半の「他者」論は、「欲望」「テクスト」「師と弟子」「謎」などのキーワードにしたがって記述される。

レヴィナスが告げているのは、テクストを読む行為そのものが「出来事」であるような読みを試みよということである。・・・(中略)・・・今読みつつある当のテクストの書き手を「師としての他者」に擬し、師が蔵する「謎」を「欲望」するという仕方で「漂流」に踏み出すような読みを試みることである。(p99)


まず、主体があり、主体が他者を志向するという自我中心主義の図式をレヴィナスは転倒すると内田氏は解説する。主体と他者は同時に出来するのではなく、主体は他者に遅れて出来すると。

「複数のパロール」について、内田的解説。

「私」ともう一人「<私>と名乗る他者」の二つの声が輻輳するとき、そこに、「私」のことばによっては決して担いきることのできない「何か」がある種の「倍音」のようにして聴き取られる。それをかつて詩人たちは「ミューズ」と呼び、ソクラテスは「ダイモニオン」と呼び、村上春樹は「うなぎ」と呼んだ。もちろんそれを「神の声」と呼ぶことだってできる。(p89)


対話とは本質的に「三者協議」であるというのだ。


後半は、「死者」をめぐって展開される。レヴィナスラカンホロコースト体験から終章に至り、内田氏の思想が示される。通常の時間観念は「過去から未来へ」と流れるが、もうひとつの時間とは、「未来から過去へ」流れる時間のことだ。

ハイデガー的にいえば「時熟」する時間意識、ラカン的にいえば「前未来形」で生きられる時間意識、レヴィナスの述語でいえば「他者のための/他者の身代わりの一者」の時間意識がそれである。それは「私についての物語を語り終えた私」を想像的な起点として今ここを照射するような、逆走する時間意識である。私たちはこの二つの時間意識のはざまを揺れ動いている。どれほど公共的な被解釈性に頽落していても、私たちは死の切迫を完全に「ひとごと」にすることはできない。そして、私たちが、誰によっても代替不能のかけがえのない人間でありたい、わずかなりともこの世界に「善きこと」を残しておきたいと願うとき、私たちは「死んだあとの私」の視点から「今、ここ」の私を眺めるという操作を経由することを避けられない。(p247)


つまり「死んだあとの私」の視点から行う行為が「善」であると内田氏は言っているのだ。それは、次の結論的言説に要約される。

神が完全管理する世界には善への志向は根づかない。皮肉なことだがそうである。私の外部にある「他者」がまず私の罪を咎め、それに応えて私が有責感を覚知する、というクロノロジックな順序でものごとが進む限り、人間の善性は基礎づけられない。人間の善性を基礎づけるのは、人間自身である。同罪刑法的思考に基づかず、神の力も借りずに、なお善を行いうるという事実、それが人間の人間性を真に基礎づけるのである。レヴィナスは、「神なき世界」における善の可能性について、短く美しいことばを書いている。

無秩序な世界、善が勝利に至らない世界における犠牲者の立場、それが受苦である。受苦が神を打ち立てる。救援のためのいかなる顕現をも断念し十全に有責である人間の成熟をこそ求める神を。(p268−269)


「神なき世界」で人間が「善」を行うことの意義は何なのだろうか。いや、そもそもここでいう「善」とはどのような行為なのか。完全無欠な「善」がありうるのだろうか。「人間の人間性を真に基礎づける」とはどういう意味なのか。「人間性」だの「善」ということばに対して素朴な疑問を禁じえない。「善悪」の基準とは、相対的なものではないのか。内田氏は、この書物を書いている間、自分は「比較的感じのよい人間」であったと述べている。また、「ある知的行為が『愉しく』感じられるというのは、ふつう、そこでなされていうことがどこかで『人間の本性にかなっている』からである」という。「人間の本性」とは何だろうか。


レヴィナスラカンを引用しながら、内田氏は自己満足の陥穽に陥っているといえないだろうか。「テクスト」は開かれている。どのような読みも可能だろう。なぜ、このような疑問を呈するかといえば、小津安二郎の作品解釈に違和感を覚えたからである。

小津安二郎はコミュニケーションの交話的水準に焦点を合わせてシナリオを書く方法を知っていた稀有の映画作家である。『秋刀魚の味』のラスト近く、私鉄の駅頭での平一郎(佐田啓二)と節子(久我美子)のやりとりは次のようなものだった。(p37)


として、なんと『お早よう』のせりふを引用している。そして、「むさぼるように互いを求める彼らの欲望の激しさを、観客たちはこの「執拗さ」のうちにただしく感知するはずである。」と。そもそも、内田氏のいう「交話的水準」とは何なのか。小津は、「交話的水準に焦点を合わせてシナリオを書」いたとは思えない。野田高梧との合作シナリオであり、抑揚のない、あえて感情を抑制した話し方を俳優に強いたのだった。つまり、内田氏が誤って引用している『お早よう』での佐田啓二久我美子の会話の解釈を、自らの<欲望>説に引き寄せているに過ぎない。


小津安二郎の作品の系譜には、おなじ「とうふ」を作っていても二つの分野があり、ひとつは、コメディ調の喜八シリーズなどで、他は、戦後の『晩春』に始まる家族の崩壊の物語である。内田氏が引用しているのは、コメディ調の『お早よう』であり、佐田と久我の会話に激しい欲望を読みとるのは、深読みにすぎない。小津作品の同語反復は、親子、夫婦、男女間で同じように交わされるが、その構図が、交錯しない視線に象徴されるように、親和的言説以上でも以下でもない。


内田樹の未来から過去への時間意識や、「死んだあとの私」の視点から見る方途などは基本的に首肯できる。また、レヴィナスラカンで読み解く過程は、刺激的であり読み応えが十分ある。しかし、結論が「人間の人間性を真に基礎づける」というような「善」を志向する思惟方法では、倫理か道徳の教科書ではないか。



【補記】2004年12月26日「朝日新聞」から


高橋源一郎が、今年の3点として
中沢新一対称性人類学 カイエ・ソバージュⅤ』(講談社メチエ)
内田樹『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』(海鳥社
斎藤環『文学の徴候』(文芸春秋
をあげている。

精神医学もしくは精神分析の方法や知見が①では部分的に、②や③では広範に引用されて、それが鋭い認識の矢となって対象を撃っている。鋭すぎる認識は、時に「文学」にとって両刃の剣となる。だが、いまはその危険な武器をこそ採るべきなのかもしれない。ところで、斎藤環の「語法」に、ぼくは小熊英二大塚英志と共通するものを感じるのだが、それは何に由来するのだろう。

<時に「文学」にとって両刃の剣>という表現が気にかかる。精神分析的方法は<危険な武器>であるかも知れない。しかし、敢えて、その武器を用いなければ解読できない対象が現実に存在する、ということが現代社会の闇の深さ、あるいは病の重さを感じてしまう。内田樹の著書からも、背後にその気配を感じる。



対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)

対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)

文学の徴候

文学の徴候