ハウルの動く城


ハウルの動く城 主題歌 世界の約束



宮崎駿の新作アニメ『ハウルの動く城』は、911以後を踏まえたフィルムになっている。宮崎アニメについての解読書は、映画公開とともに数多く出版され、『風の谷のナウシカ』以後の作品について様々な記号的解釈が氾濫している。むろん、それら評論をすべて読めば、宮崎アニメが解るというものではない。


膨大な観客動員を獲得している宮崎アニメは、数年置きに新作が公開されるたびに、話題となり、フィルムに刻印された過剰な豊饒さゆえに、観る者に解読を迫る。単純に面白いというレベルではないからだ。


で、『ハウルの動く城』はどうか。先に911を踏まえたと書いたけれど、911以後の世界の状況を反映したアニメであることは確かだ。戦争が絶えない世界とは、まさしく21世紀の現実であり、魔法による混乱とは、世界観=宗教の違いによる憎悪の反映にほかならない。


18歳の少女ソフィーが荒地の魔女により魔法にかけられ90歳の老婆となる。不思議なことに90歳のソフィーの方が少女時代よりはるかに元気に行動する。魔法使いハウルの城に住むことで、ハウルの強さと繊細さを知る。ハウルは、悩める美青年なのだから。戦争にかかわっているハウルは、ひどく疲れて帰ってくる。疲れたハウルを励ますソフィーの表情は、少女にもどったり、しわのない老婆になったっりと、90歳のはずだが、年齢不詳の女性になっている。


ハウルは、無意味に戦うことよりも、ソフィーを守ることが自分の役割だと自覚する。ソフィーは魔法を持たないし、自ら魔女の呪いを解くこともできないが、状況に俊敏に対応することで、突然やってきた<恋>の成就に突き進むことになる。


恋と冒険のファンタジー
宮崎アニメとは、少女、空を飛ぶこと、妖怪あるいは魔法、城または異界、戦争のおぞましさなどを常に描きながら、作品世界にのめりこむ仕掛けがもうけられる。完璧なるハッピーエンドで、観る者に至福をもたらす爽快さにおいて、『ハウルの動く城』は卓越している。


あるときは網野善彦の中世的世界(『もののけ姫』)を描いたり、またあるときは、異界との交流(『千と千尋の神隠し』)を隠喩的に表象させたり、時にはダンディズム(『紅の豚』)など、様々な手法で宮崎アニメは展開してきた。しかし、21世紀になり、あらためて無意味な戦争が続く不安定な世界をみたとき、単純明快な『ハウルの動く城』に行き着いたのではないだろうか。戦争に正義というものはない、と。


ハウルの動く城
http://www.howl-movie.com/

スタジオジブリ
http://www.ntv.co.jp/ghibli/


[補記]


ハウルの動く城』は、宮崎アニメの過去の作品の細部を想起させる光景がいくつもある。草原の風景は『アルプスの少女ハイジ』であり、ヨーロッパの街並は『魔女の宅急便』でおなじみの景観。ハウルの城は、『天空の城ラピュタ』のイメージを彷彿させる。宮崎アニメの少女はすべて同じ表情に見える。無垢な少女の典型と捉えることもできるだろう。


少女の眼をとおして、世界の歪みを露呈させ、人間が自然と調和すること、自然を改造することが進歩であるという科学万能主義への批判、自然から遊離した戦争に人間が取り込まれ、闘うこと自体が目的化している世界とは、進化の過程にあると言えるのだろうか、映像が明確に、否と答えている。


水と火に宮崎アニメの隠喩が示されており、人間の救いは自然との共生にあるというのが、宮崎駿の一貫したテーマであるように思える。新作『ハウルの動く城』は、戦争の無意味さを強調しているが、ソフィーやハウルが癒されるのは、草原であり、湖畔であり、草花であって、自然との融合といっていいだろう。


アニメが子供や青少年を対象としていたが、宮崎駿は老若男女すべてを観客として想定している。とくに新作『ハウルの動く城』で、おばあさんとなったソフィーに「年をとれば無くすものがない」と言わせているのは、宮崎氏自身の哲学をことばにして提示していることの証明にほかならない。


ところでこれは余談だが、敢えて選ぶとすれば、宮崎駿のベストは『風の谷のナウシカ』になるだろう。『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』も、アニメの極限を表現しているが、氏の知見があまりに盛りだくさんで、メタファーの過剰は避けられない。映画としての完結度からいえば、『ナウシカ』に落ち着く。