ブラフマンの埋葬

ブラフマンの埋葬

ブラフマンの埋葬


小川洋子著『ブラフマンの埋葬』(講談社)を読了。
前作の『博士の愛した数式』(新潮社)では、全国の書店員が選出した本屋大賞を受賞、また読売文学賞を受賞している。
ブラフマンの埋葬』では、泉鏡花賞を受賞と、このところ、小川さんは絶好調である。小川さんのような地味な作家が注目されることはいいいことだ。


受賞云々はさておき、小川さんの世界はきわめてユニークである。80分しか記憶が持たない数学博士と家政婦の物語など、どうすれば発想が可能なのか。『ブラフマンの埋葬』でも、わけの分からない動物である<ブラフマン>がある日、「創作者の家」の管理人である僕のところに突然やってくる。物語の展開は、およその予想がつくけれど、静謐な世界を、ゆったりと彫琢された文章で造型されているので、文体の味わいで持たせている。


たとえば、僕が偶然手に入れたある家族の写真について次のように書く。小川洋子の作家的資質をうかがわせる箇所である。

彼らが皆いなくなってしまった、という想像は思いの外僕を悲しくさせなかった。むしろ安らかな気持ちにさせた。家族が一人ずつ旅立ってゆく。残された者は、死者となった者の姿を、写真の中で慈しむ。そこでは死者と生者の区別もない。やがて少しずつ残される者の数が減ってゆき、とうとう最後には誰一人いなくなる。まるでそういう家族など、最初からどこにもいなかったのだというように、あとにはただ無言の写真だけが残される。・・・・・その静けさが、僕に安らかさを与えてくれる。(p71−72)


抽象的な世界での喪失が、小川さんの共通したテーマである。そこは、心穏やかに癒される場所となっている。優しい僕と、冷ややかな雑貨屋の娘、二人は対照的な性格であり、ブラフマンの存在の危機は、雑貨屋の娘によってもたらされる。地の文章は、僕の視線で捉えられ、時々、ブラフマンについての説明や解説が、章末に書き加えられる。


僕もブラフマンも非現実的な存在であり、その点では、一種の理想を体現しているといえよう。近代文学が終焉した現在では、特殊で狭隘な世界を構築することが、文学という古典的な伝統に繋がる希少な方途であるといえるだろう。


博士の愛した数式

博士の愛した数式