ジャック・デリダの死


今日の朝日新聞を見て、ジャック・デリダの訃報を知らされた。

フランスの著名哲学者ジャック・デリダさんが8日深夜から9日未明にかけて、膵臓(すいぞう)がんのためパリの病院で死去した。74歳だった。AFP通信などが伝えた。
1960年代以降、プラトンからニーチェハイデッガーまでの西洋哲学全体を先鋭的に批判・解体し、西洋中心主義を問い直す「脱構築」の思想を展開。テキストを異なる視点から読み替える手法は、世界の思想・文学などの研究に大きな影響を与えた。(2004.10.10)


ウィキペディア』の「ジャック・デリダ」の項目から

ジャック・デリダJacques Derrida, 1930年7月15日 - 2004年10月8日)は、アルジェリア出身のフランスのユダヤ系哲学者。高等師範学校 Ecole Normale Superieure 卒。
一般にポスト構造主義の代表的哲学者と目され、脱構築、散種、グラマトロジー差延等の概念を生み出した。フッサール現象学から出発し(修士論文は『フッサール現象学における発生の問題』)、フッサールの『幾何学の起源』に長大な序文をつけ注目を集める。ニーチェハイデッガーを批判的に発展させた。サールとの論争やハーバーマス、ガダマーとの論争でも知られている。ハーバーマスとは911テロ後共闘。脱構築は哲学だけにとどまらず、文学理論、法哲学等に影響を与えている。日本における代表的なデリダ研究者として高橋哲哉鵜飼哲などがいる。


フランスのサルトル以後の哲学者たち、フーコードゥルーズデリダが他界した。三人は、エイズ、自殺、そしてガンによる死亡。20世紀を象徴する死に方である。ポストモダン思想の終焉。日本では、彼らの著作すべてが翻訳されているわけではない。いわば、流行思想のように、<フーコードゥルーズデリダ>と唱えられた。丸山眞男ではないが、外来思想が定着・継承されないうちに<古層>に断片化されて行く。洋服を着替えるように、次々と新しい外来思想を取り入れてきた。


極端な例は、サルトルだろう。実存主義が大流行したあと、フーコーの『言葉と物』の出現以来、忘れられた過去の思想家になってしまった。フーコーの著作は、ほぼ順調に翻訳されてきている。しかし、ドゥルーズでは肝心の『シネマ1──映像=運動』(1983) 『シネマ2──映像=時間』(1985) が翻訳されていない。たしか、法政大学出版局から予告が出ていたような気がする。


『言葉と物』でつまずき、『アンチ・オイディプス』で立ち止まった者にとっても、フーコードゥルーズは、雰囲気的な理解は可能になってきた。だからこそ、せめて『シネマ1・2』はなんとしても読みたい。

  
デリダの著作も多くは翻訳されていない。サルトルのようにならないために、彼の著書の翻訳がすべて出て、正しく評価されることが要請される。デリダについては、率直にいって、ほとんど理解不能なのだ。(私が解らないだけ?)デリダに関しては、学者たちが勝手に引用し、解釈してきたように思えてならない。


それにしても、ポストモダンのあとは、カルチュラル・スタディーズだの、ポスト・コロニアルだの、またぞろ新しい思想が輸入されつつある。懲りない思想界だ。カント・ヘーゲルマルクス、それにフロイトニーチェの思想で、世界を理解するには十分だと思うのだが・・・


マルクスと息子たち

マルクスと息子たち


ウィキペディア
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