日本とドイツ二つの戦後思想


日本とドイツ 二つの戦後思想 (光文社新書)

日本とドイツ 二つの戦後思想 (光文社新書)


仲正昌樹『日本とドイツ二つの戦後思想』は、戦後のドイツと日本を比較しながら思想史的に、「戦争責任論」「ネーション」「マルクス主義」「ポストモダン」という項目を通して比較思想を辿った、新書本にしては、濃密な内容の本になっている。


本書を読む前に、少し前に出版された『なぜ「話」は通じないのか』を読みながら、瑣末なことから始めて、仲正氏にとっての「パブロフのワン君」との論争の馬鹿馬鹿しさにうんざりさせられたので、少なくとも、本書はそれなりに戦後60年を総括しているであろうことを期待して読み始めた。しかし、本書が一つの結論を導いているような内容ではなく、読者は本書をてがかりに思考しなければならない、啓蒙書であった。


なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論

なぜ「話」は通じないのか―コミュニケーションの不自由論


まずは、仲正氏の助言に従って、「私の関心は恐らく著者の意図とは別のところにあるのだろうが・・・」(147頁)と断っておく。さもないと、「パブロフのワン君」になってしまいそうであり、著者の物語と、読者(私)の物語が「地平の融合」をするわけがないのだから。


「戦争責任」については、「東京裁判」に関する言及が一番わかりやすい。法的には、「東京裁判」は戦勝国が、敗戦国の首謀者を、「国際法」的根拠もなく裁いたことは確かだ。しかし、仲正氏の解釈は、次のとおり、まっとうである。

「実力行使で勝った者の論理の押し付けとしてできた法はインチキであり、認められない」という態度を徹底していくと、現存するほとんどすべての国の国家主権と法体系は、程度の差こそあれ、もともと強い者たちによる既得権益保持のために作り出されたものであるから、「国家」の存在自体がインチキだということになってしまう。
戦前の大日本帝国憲法も、明治維新の勝者たちによって勝手に作られたものであり、別に全「国民」の自発的な「合意」によって形成されたわけではない。(p.22−23)


適応すべき法が事後的に再構成されることはやむをえないことであり、連合国が日本とドイツ向けに事後的に作った法は、「民主化」と「政治的安定」という観点からは、ポジティヴに機能していると著者は言う。


第二の「ネーション」の項では、加藤典洋高橋哲哉の論争に触れつつも、論争のズレを指摘し、やや加藤よりに視えるが、以下のことばに示されるとおり、曖昧なままだ。

大日本帝国の「国体」は公式的にはいったん解体されたものの、天皇制を核として文化的・宗教的には生き残り、それが「国民国家」としての日本国の統合の象徴としてー政治的にもー機能しているので、右にとっても、左にとっても自分たちの立っている足場が見えにくくなっているのである。日本を国民国家たらしめてきた”中心”が生きているのか死んでいるのか分からない中途半端な状態にあるので、何を基準にして「日本国民」という共同体について語っているのかはっきりしなくなるのだ。(p.129)


日本とドイツの思想に言及しながらも、上記のような結語になってしまう「ネーション」とは、それほど難しいものなのか。とりわけ日本では、「ナショナリズム」や「国民国家」が、共通の土台にない。「つくる会」の「歴史教科書」問題にかかわる代理論争と、「敗戦後論」の論争にしかみるべきものはない、という。しかし、それも中途半端というわけだ。


さて、「マルクス主義」については、ホルクハイマー/アドルノの「啓蒙的理性批判」には、観念論・唯物論の二項対立がないこと。また、丸山眞男の位置については、

「我々は真の意味で近代化しなければならない」という丸山氏の思考法は、左右を問わず日本の知識人にかなり浸透しているように思われる。・・・(中略)・・・私自身も広い意味での丸山的近代化論者かもしれない。(p.165)


と記す。確立された近代がないことには、近代を解体できないという逆説。


本書でもっとも面白く読めたのは第四章「『ポストモダン』状況」であった。サルトル実存主義を否定した「構造主義」者たち、レヴィ=ストロースフーコードゥルーズ=ガタリ、などを紹介しながら、ベンヤミン『パサージュ論』、キットラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター』をしっかり解説し、日本の特殊な「ポストモダン」状況を紹介する。
浅田彰中沢新一柄谷行人蓮實重彦、そして、東浩紀宮台真司から北田暁大まで。引用するときりがないので、最後の部分のアイロニカルな状況に関するところのみに留める。

新保守主義と思われていた、西部邁小林よしのりが、アメリカの世界戦略に協力する形で日本の発言力を強めていこうとするポチ・ナショナリズムに反対する立場を表明し、左派と思われていた宮台真司が、日本はアジアを軸とした独自の国家戦略を持つべきだとする亜細亜主義を標榜して*1、相互に接近しているというのは、これまでの感覚からすると不思議な状況だ。ポストモダン左派による批判から丸山を擁護し、丸山的な自由主義市民社会論に根ざした非戦の哲学を提唱する小林正弥が、「共同体主義者」を名乗っているのも、かなりねじれた関係であるように思われる。
ドイツも日本もこれまで批判的な社会思想のモデルになってきた「西欧近代」自体に対する信頼が揺らいでいるせいで、”右”に行くのか”左”に行くのか、言論活動の最前線にいるはずの”知識人”たち自身にさえ分からない不確実な状態に入りつつあるように思われる。(p.238)


ドイツと日本の戦後知識人の言説を紹介しながら、たどりついた地点は、きわめて「不確実な状態」というところに、現代を語ることの困難さを感じる。従って、本書に結論はない。冒頭に述べたように、あくまで、啓蒙書にどまっている。そこに、著者の誠実さをみたい。


新書としては、盛りだくさんで、充実した内容だったことを付記しておきたい。戦後思想史を勉強するための必読文献となっている。少なくとも、「ナショナリズム」や「戦争責任」や「国家」に言及する場合は、参照すべき一冊である。



パサージュ論 (岩波現代文庫)

パサージュ論 (岩波現代文庫)

グラモフォン・フィルム・タイプライター

グラモフォン・フィルム・タイプライター


■追記

仲正昌樹は、「おわりに」で、大筋において日独は似たような経緯を経ているが、要所要所での大きな差異があると指摘している。

大筋において似ているというのは、戦前のナショナリズム的な全体主義体制の復活を阻止すべく台頭してきたマルクス主義を軸とする批判的社会思想の発展と衰退、それに対抗するものとして現れてきたポストモダン思想の影響力の相対的な拡大である。(p.239)

西欧の矛盾を凝縮しているような存在であるドイツでは、”同じような”テーマでの論争でも、日本の場合よりも論点が具体的に絞り込まれ、話の展開がはっきりしやすい・・・(p.240)

明確な「世界観」を持たないまま、何となく全体主義体制に移行し、何となく民主化した日本という思想的に曖昧な国は、西欧諸国、特に二項対立思考の本場のようなドイツの人々には、理解しにくいかもしれない。(p.242)


本書では、多数の日独の思想家に言及している。とくに、ドイツの思想家については、未知の名前(私にとって)が数名いる。本書の最後に<ドイツと日本 戦後思想に関わる主な出来事>という年表が付されている。出来事と、思想家と著書をながめていると、1961年の「ベルリンの壁建設」から、1989年の「ベルリンの壁崩壊」に至る「歴史」が、ドイツのみならず、世界的規模において「マルクス主義」の発展と衰退を象徴している。


本日(2005年7月23日)の「朝日新聞」に「マルクス再び」と題して、筑摩書房から刊行されている新訳の『マルクス・コレクション全7巻』の紹介と、関連図書の出版状況について報告されている。グローバル化が進捗する世界の混迷を解くテクストとして、マルクス主義ならざる「マルクス」の著書が、何らかの指針を示しているのではないか、と期待したいところである。マルクスを新訳で読むことが要請されている。

*1:拙ブログでも宮台真司の転向の行方について懸念していることを指摘したことがある。