ミラーを拭く男


梶田征則『ミラーを拭く男』(2003)を観た。交通事故を起こした定年前の男(緒方拳)のもとに、被害者の祖父が執拗に押しかけている。対応する妻(栗原小巻)は、困惑の様子。息子(DA DUMPの辺土名一茶)と娘(国仲涼子)は、ほとんど無関心でクールな態度。


この室内シーンは、男の状態が尋常ではないことを示している。男はTVの将棋番組をじっと見ている。手前に広めのリビングルームがあり、そこに子供ふたり。妻はリビングから玄関に通じる廊下の玄関前で、被害者の祖父(声のみ)の一種恐喝じみた激しい言葉を受けている。男は、うつ状態であることが、この光景によって観る者に伝わる。


男は、事故を起こした場所のカーブミラーを拭き、ミラーの裏側に名前が記されていることを発見する。その名前の家をたずねると、祖父(大滝秀治)は孫娘を、その現場の事故で亡くしたと話す。役所にミラーの設置を嘆願するが、らちがあかないので、賠償費用で、カーブミラーをとりつけたと言う。


さて、そこから、男は市内すべてのカーブミラーを拭いてまわる。夫の行動を不審に思った妻は、そっと夫の跡をつけ、男の行動を知る。市内すべてのミラーを拭き終わると、男は家族に内緒で、北海道へ旅たつ。日本全国のカーブミラーを拭くために。


途中で、マスコミが「ミラーを拭く男」を発見し、TV取材がつきまとうことになる。寡黙でほとんど一言も発言せず、ひたすらミラーを拭き続ける男。緒方拳が秀逸。北海道の風景をバックに、黙々としてミラーを拭き続ける男。たしかに絵になる。


連絡船のフェリーで出会った自転車で旅する男(津川雅彦)は、やがて、マスコミを利用して、自らが「ミラー拭き」のリーダーとなり、TVカメラの前で得意げに話すようになる。緒方拳は、沈黙のまま孤独に、ミラー拭きの旅を続けて行く。


この映画には、家庭の崩壊、定年を前にした夫婦の在り方、そして「生きる」ことの意味が問われている。もちろん、映画をどの視点から観ることも自由だが、現代社会、とくに高齢化社会へ向かう日本の現実の一端を、緒方・栗原夫妻に演じさせている。ラストにやや救いの残るシーンが用意されているが、それは、問題を根本的に解決するものではない。


監督・脚本の梶田征則は、自分の父親の体験をベースに、「ミラーを拭く男」のイメージを加え、黄昏の世代の人々やその下の世代や若者たちにメッセージを送っている。どんなメッセージなのかは、観る人によって異なるだろう。小品ながら、脇を固める俳優陣も豪華であり、日本映画の健在を示している。


舞台活動が中心の栗原小巻は、この映画は12年ぶりになる。一茶=ISSA、国仲涼子も長男、長女としての存在感があり、好演。地味な映画だが、観て損はしない。