ヒロシマナガサキ


今、広島・長崎に投下された原爆について語ることの意味、戦後は終わっていないこと、戦後体制の終焉などと決して言えないことが、日系三世スティーヴン・オカザキ監督『ヒロシマナガサキ』の証言からはっきりわかる。イデオロギーだの政治性だのを極力排除し、ひたすら証言のみで構成されたドキュメンタリー映画の形で構成されたフィルムは、まず、先の戦争の発端をアメリカのニュース映画でみせることからはじめる。


アメリカは日本をどう見ていたのか。真珠湾攻撃に対してアメリカの大統領ルーズベルトの演説が流れる。「汚名の日だ、どれほど時間がかろうとも、この奇襲を乗り越え、我々は正義の力をもって完全な勝利を遂げるだろう」、この演説に既視感があるのは、ブッシュのイラク攻撃の演説と重なるからだろう。


『敵国日本』(1942)のフィルムが上映され、10年滞在した駐日大使が日本のことを、「彼らは我々とはまったく異なる人種と断言できます。」「最大の違いは思考回路であり、日本人の論理は西洋の物差しでは、まるではかれない」と述べている。「異なる人種」だから、開発に成功した原爆を落とすことに抵抗がなかったとえば極端かも知れないが、アメリカ的・キリスト教的な論理からいえば、当時の日本も現在のイラクアメリカにとって同じ「異なる人種」となる。


キャメラの前で淡々と被爆体験を語る14人の前に「言葉」は出ない。ひたすら過酷な事実を受けとめるしかない。1945年の8月6日の広島、8月9日の長崎に居たひとたちが語ることばの重さに、耳を傾けることこそ、このフィルムが作られた理由ではないだろうか。60年以上過ぎても後遺症に悩まされ続けている。体験の重さと、その重さが継続すること、その人の一生を支配すること、これは不可避の現実として、生涯原爆とつきあわざるを得ないこと、これらが千鈞の重みとして視る者に、事実をつきつけられた者に、逃げることは許されないと迫る。


戦争責任問題を曖昧にしたまま、戦後60年が経過してしまった。戦後生まれが75%となった現在、長寿国を誇ることができるのも「憲法第9条」があるためであり、もし安倍首相がいうように、憲法を改正し戦後体制からの脱却を図るとすれば、いつか来た道に戻ることになりはしないか。映画『ヒロシマナガサキ』はそんな政治的言説から距離を置いている。だからこそ、視る者はこの国の行方に不安を覚えるのだ。


原爆災害―ヒロシマ・ナガサキ (岩波現代文庫 学術149)

原爆災害―ヒロシマ・ナガサキ (岩波現代文庫 学術149)


8月15日だからというわけでもないが、映画『ヒロシマナガサキ』は、日本人の誰もが観るべき映画だ。無視してはいけないし、回避してはいけない。まともに受け止めること。東京であれば「岩波ホール」へ急いで、本作を観るべきだ。