老醜の記


勝目梓『老醜の記』(文藝春秋、2007)読了。バイオレンスとエロスの作家・勝目梓氏が、自伝小説として、『小説家』(講談社、2006)で話題になった。『小説家』は未読だが、先に『老醜の記』を読む。


老醜の記

老醜の記


作家片山は、59歳のとき銀座クラブのホステスをしている21歳の女性・千穂子に出会う。片山72歳、千穂子34歳になるまでの13年間にわたる二人の関係を時間の経過に沿って片山の視点から語られる。小説家の片山は、風俗小説の売れっ子で、一方千穂子は青森出身で、典型的なファザコン型女性。片山は既に、離婚して家族と別れて房総半島の海辺で一人暮らしをしている。週末に千穂子が、作家の住まいを訪れる。また、片山が東京へ出るときは、片山のホテルに千穂子が泊まる、そんな関係が初期の状態。千穂子は本気で、片山に結婚を求めるが、年齢差や今後のことを考え、片山はこのままの恋人同士の関係を望む。


年齢差からそのまま二人の関係が順調に進むとは思えない。そのうち、千穂子は不倫相手・浦部との関係が深くなり、三角関係の状態が苦悩のうちに片山の視点から語られる。従って千穂子の気持ちや浦部の様子など、はっりき見えない仕掛けになっている。


もっとも衝撃的だったのは、浦部との関係に千穂子は肉体的な嗜好を求めていたことであり、受苦的なうちに快楽を求めるマゾ的な資質を持っていたことを、千穂子の態度のうちに発見するところである。


性的な嗜好性について寛容な片山も、この時は戸惑う。千穂子は自分の性的嗜好を浦部に求めていたわけだ。年齢的にも性的嗜好からも、片山は浦部に敗北感を味わう。しかし、三角関係における自分の位置を自覚しいわば<性>を超えた次元で千穂子と付き合うことを次第に覚悟して行く。


片山の視点で読む読者は、当然、作家に感情移入することになる。「性を超越した男女関係」に至福を感じることは、いささか困難とも思える。ここは、仏教的な悟りの心境から連想すると少しは解かるように思える。

ハノイ旅行は片山にとっては、そのストイック寛容な境地が不動のものになっているか否かが、一週間をかけて試される貴重な機会に図らずもなっていたわけだった。そして彼は日がたつにつれて、そのテストの結果に自信が増していくのを実感していた。朝な夕なに千穂子の魅惑の裸身を眼にしながらも、心の安定を保っていられる自分の完璧な自己統御能力に、片山は奇妙な負の達成感とでも言うべきものを覚えるのだった。/それは、何がなんでも千穂子にしがみついていたいという愚かしい一念から生まれ出てきた、幾重もの迷走と屈折の果ての倒錯的な安定の境地、と言うべきかもしれない。それでも片山自身は、千穂子に注ぐそうした想いも恋情と呼ぶほかないものであり、二人の絆は性愛を超えたものと定めたことで、新たな静穏と濃やかな情愛がそこに生まれているということを、ハノイの旅であらためて実感していたのである。(p.240−241)


桐野夏生さんによれば、「恋愛における男性は「所有」を求め、女性は「関係」を求める」という。この名言は『老醜の記』にも該当する。「所有」すれども「関係」から排除される。


変容 (岩波文庫)

変容 (岩波文庫)


かつて伊藤整という作家がいた。伊藤整『氾濫』は、桐野氏によれば「男女の所有と関係」を描いた名作であるそうな。最晩年の『変容』は、老年の性を描いたものだが気品があったように記憶している。


勝目梓『老醜の記』は、伊藤整の老人文学を継ぐ作品の雰囲気を持っている。


小説家

小説家