ニッポンの小説 百年の孤独


高橋源一郎が『文學界』に一年半連載した評論ともエッセイとも、あるいは小説そのものとさえ形容できる『ニッポンの小説 百年の孤独』(文藝春秋,2007)が一冊にまとめられた。一気に読了した。帯には、「日本文学史上はじめての根源的小説論!」と記されている。「小説論」、たしかに、小説をめぐる言説だ。いや、小説の定義を求めて百年の歴史に遡及しながら、「死者」を描くことが小説であるかのように、話は進んで行く。


ニッポンの小説―百年の孤独

ニッポンの小説―百年の孤独


夥しい数の作品(小説、批評、詩など)が引用されているが、本文には「出典」が記されていないので、巻末の引用文献で、確認しながら読みすすむことになる。

わたしの考えでは、「ニッポン近代文学」の「文」や「文法」や「死」や「死者」を描くことに失敗しています。というか、それらを描くことを回避することによって成立しています。/では、どんな「文」、どんな「文法」なら、「死」や「死者」を描くことが可能なのでしょうか。/それは、簡単にいうなら、自らが「死者」に近づく「文法」です。・・・(中略)・・・
『野川』という、言葉の真の意味で冒険的な作品の中では、「死者」に近づく「文法」の可能性を探っています。それは、わたしたちを、いわば「昼間」の間、規制している「文法」とは異なったものです。(p.146−147)

この『野川』とは、あの古井由吉による死をめぐる難解な小説のことだ。


野川

野川


「ちからが足りなくて」の章にいたり、荒川洋治の『文芸時評という感想』(四月社,2005)を読みながら、現在の小説について考える。このあたりから俄然、面白くなる。

荒川さんは、ことばの専門家で、詩の専門家だ。それが、いい。/つまり、ことばの専門家ではあるけれど、小説の専門家ではない。よく似た仕事をしている「隣の人」。それが、荒川さんと小説の関係だ。ぼくの考えでは、批評というものは(とりわけ「時評」というものは)よく似た仕事をしている「隣の人」が担当するのがいちばんよろしいのだ。(p.304)


文芸時評という感想

文芸時評という感想


とうわけで、「ニッポンの小説」の「最良の定点観測」であると評価する『文芸時評という感想』を引用しながら、文学について著者は考える。荒川洋治は散文家の「隣人」として、かなり厳しく現代文学、とりわけ小説を批判している。1992年から2004年の12年間にわたり、現代文学の最前線から作品を点検している。


たとえば、1993年4月の文章からの引用。

「本当」「一生」「恐るべきこと」「心の底」などの多くは、いわば究極の、感情表現・価値判断を示すことばである。・・・「ニッポンの小説家」さんの読者は、作者が本当といえば「本当」、「心の底」と書けば「心の底」とみる。作者が自分のことばの「レベル」を疑わなければ、それでどこまでもついていく。「ニッポンの小説家」(吉本ばなな)は「レベル」を知るかしこい作家だ。そしてその「レベル」を他人には教えない作家でもある。肝心のところで、情がうすいのである。(p.308−309;『文芸時評という感想』p.42)


高橋源一郎は、荒川洋治の文章で取り上げられている作家をすべて「ニッポンの小説家」で統一している。原文をあたればすぐ分かることなので、ここでは、作家名を出すけれど、他意はない。

顔は笑っていても、目は笑っていない。感動のことばを呟くが、その実、心は揺れ動いていない。読者への信だけは疑わないふりをしていて、なにも(誰も)信頼していない(のかもしれない)。そのような作家が増えた、のである。「ニッポンの小説家」(吉本ばなな)はそういう人だったのだ。(p.330)

吉本ばなな氏に対する荒川洋治の姿勢は手厳しいが、高橋源一郎も荒川氏に同調している。
また、東大教授で芥川賞作家である松浦寿輝の作品に対する評は、

ほんとうにそう、自分で感じて書いたのかというと、文章のはしばしを見ると、どうもそうは見えないのである。思ってもいないことでも、平気で書くことができてしまう。そんな文章がいつも書けるとしたら、それは実はおそろしいことでもある、ということを「ニッポンの小説家」(松浦寿輝)氏はあまり意識したことがないのかもしれない。本当に思っていることを、うまく書けない文章のほうが文章としては上であることを、書き手はいつも知っておかなくてはならない。(p.320,『文芸時評という感想』p.183)


荒川氏はよくぞ書いた、東大の教授先生に対して。高橋源一郎は、それは「世間の目」があり「他者の目」ではないという。「そこには功利というものが存在している。あるいは利害関係が。」と書く。現在の「ニッポンの小説家」たちの文章を分析し批評する荒川氏に全面的に寄り添いながら、次々と例をあげていく。荒川氏の言説に従うかたちで「ちからが足りない」の章は書かれて行く。すると、現代文学が抱える問題点が浮き彫りにされるという仕掛けだ。


詩学叙説

詩学叙説


そして、吉本隆明詩学叙説』を引用しながら、高橋源一郎はつぎのようにいう。

あらゆる言語表現は、<意味>と<価値>の両方を所有している。だが、最終的には<意味>が散文の本質であり、<価値>が詩の本質であるなら、「ニッポンの詩」は、様々な曲折を経て、その本質にたどり着きつつあるのかもしれない。・・・(中略)・・・では、「ニッポンの小説」を書きながら、つまり、散文を書きながら、なおかつ、「意識の奥底に」「どんなふうに言葉で述べても言いつくせないもの」が残っていると感じる者は、あるいは、そんな衝動に目を瞑り、<意味>ある小説を書きながら、なおかつ、「その意図に従わない無意識の欲求」を感じる者は、どうすればいいのか。・・・(中略)・・・<意味>では、すなわち、現在の散文では、解消しえぬ「意識の奥底にあるもの」を救出するために、<価値>が発見される。それは、形式として<無意味>だ。/だが、小説は、完全に<無意味>になることはできない。いや、完全な<無意味>には、耐えられない。だから、無意味に包囲されながら「ない」表現で包囲されながら、ただ一つ、「小説」が<意味>として突出する。(p.392−393)

「エピローグー補遺」において、漱石を論じた江藤淳の「文体」に注目する。

ソウセキは、「ニッポンの小説」の離陸に立会いながら、同時に、異和をも表明していました。それは、『夢十夜』とは異なる、明快な「散文」作品中に、不思議な形で存在しています。つまり、解読しえない、ある独特な質感として残されているのです。(p.440)


高橋源一郎は、自らの原点を回顧しながら、小説を書き続けることについてつぎのように結ぶ。

なぜなら、小説というものを書きつづけ、あるいは考えつづける限り、わたしは、いつまでもそこに留まりつづけることができるからです。/そこ、とは、およそ、言葉というもののふるまいの一切に、真剣に聞き入ることのできる場所、言葉というものがなにをしようとしているのか、言葉というものが、にんげんになにをさせようとしているのかを見つめる場所、つまり、小説という場所のことです。(p.446)

「ニッポンの小説」は、高橋源一郎が試行錯誤しながらも、「小説」を書くことについて、考えぬいた一篇の物語となっている。なによりも、読むことが楽しく、小説をめぐることばの不思議さを体験することができる、そんな作品に仕上がっているのだ。