”劇的”とは


「ことば」について立ち止まっていた。あるいは「書く」ことについてと言ってもいいだろう。誰もが「書く」ことができるネットの世界とは、「ことば」を安易に用いてしまう。拙ブログも例外ではない。不用意に用いた「ことば」によって、読む人に誤解を与える。意図せざる反応。そういったことが起きる。「ことば」「言葉」「文体」・・・それらが持つ多面性。「文脈」が読み取れないような文章を書いていないかどうか。とりわけ映画に関する恣意的な言説。がしかし、ここは拙ブログの趣旨が「独断と偏見」にもとづく「覚書」であることををご理解いただき、ご海容をお願いしたい。


こんなことを考えていたとき、昨年他界された木下順二氏の著書に出会った。演劇界において、はるかに遠望するような人。敬して遠ざけるように読むことを回避してきた人。


“劇的”とは (岩波新書)

“劇的”とは (岩波新書)


木下順二氏の他界は、報道を1ヶ月遅らせるという著者自身の意図が反映されたものであったらしい。「木下演劇」をそれほど深く観てきたわけではない。最近、大滝秀治主演の舞台劇『巨匠』を観たこともあり、復刊された岩波新書『”劇的”とは』を読む。ギリシア悲劇オイディプス王』をとりあげながら、シェイクスピアラシーヌの悲劇に触れて次のように指摘する。

オイディプスという良き王は、もっぱら”よかれ”という願望と意志を強烈に持っている人でありました。良かれかしとただ願う思いから、彼は疫病の根を絶ち民衆を救うために、父親殺しの犯人を発見すべく全力を尽くす。オイディプスだけではない、この劇の中のすべての登場人物は、皆それぞれに、総て良かれかしという願望を持っており、そういう願望の実現のために全力を尽くすわけです。だが、力を尽せば尽くすほど、良かれという気持が積み重ねられるだけそれだけ、彼らはその願望から遠ざからざるを得ないという構造がこの劇にはある。そしてその最も凝縮した、煮つまった形を一身に受けてしまうのがオイディプス自身です。良かれという思いが解決されたその究極点において、彼は自己否定をしなければならなくなる。/この、願望を強く持てば持つほどその願望から遠ざからざるを得ないという構造、平たくいえば成り行きはヨーロッパの古典劇の、だけではない、正格な構造を持つ近代劇においてもしばしば共通に見られる魅力、吸引力、つまり、”劇的”の要素の一つであります。(p.62-63)

『未来』2007年1月号は、「追悼 木下順二」になっている。追悼文を読むと木下氏の人柄と、日本の演劇界における功績については、誰もが絶賛している。生き方においても一本、筋が通っていた。生涯独身であり、死に際しても自分のスタイルを崩さなかった。演劇における二重性(意図と結果の二律背反)、人間の限界に挑む緊張感がただよう作劇は、観る者に思考を強いた。


木下順二集 (戦後文学エッセイ選)

木下順二集 (戦後文学エッセイ選)

すぐれた戯曲は総て古典的フォルムを確実に守っているという平凡きわまる事実です。(p.12『木下順二集』)


勿論、映画と演劇は異なる。しかし、「劇的」と表現している木下氏の理論は、傾聴に値する。今日、氾濫するTVドラマにみられる弛緩した雰囲気と比べると、演劇的空間は映画でいえば、長回しの超ロングショットに相当するものだ。


岩波文庫版『木下順二戯曲撰』4冊が手元にある。そして意外なことに書かれた「木下順二論」は少ない。宮岸泰治『木下順二論』(岩波書店,1995)*1を入手した。


子午線の祀り・沖縄―他一篇 (岩波文庫―木下順二戯曲選)

子午線の祀り・沖縄―他一篇 (岩波文庫―木下順二戯曲選)


木下順二氏は、『”劇的”とは』の中で何度も「未清算の過去」に触れている。

まずいいたいのは、何度もくり返した”未清算の過去”ということばの意味です。未ダ清算セザル過去。きちんと清算しておかねばならぬ問題をいい加減にしたまま、われわれは先を急ぎ過ぎていないか。それは個人的にも社会的にも。(p.124)


まさしく、木下氏が指摘している「未清算の過去」は、今日の問題でもある。木下順二氏との遅れてきた遭遇を大切にしたい、と思う。