見るべきほどのことは見つ


見るべきほどのことは見つ

見るべきほどのことは見つ


内村剛介には、『生き急ぐ』があるが、今手元に見つからないので、近刊『見るべきほどのことは見つ』(恵雅堂出版、2002)から冒頭の「見るべきほどのことは見つ」から引用する。11年間シベリアで強制労働に服役した。石原氏と同様、「ロシア共和国刑法第58条6項」により25年の禁固刑に処せられた内村剛介の獄中記『生き急ぐ』を参照いただきたい。

生き急ぐ―スターリン獄の日本人 (講談社文芸文庫)

生き急ぐ―スターリン獄の日本人 (講談社文芸文庫)

シベリア獄中十一年、あれは今にして思えばわたしの人生のもっとも充実した時間帯だったようです。大げさに言えば、平知盛ではありませんが、わたしもまた若く推さなくして「見るべきほどのことは見つ」ということになったようです。その見るべきものとはわたしたちの二十世紀の文明ーなんといおうとそれはコムニズム文明であるほかなかったーそのわたしたちの文明の行きつくさきです。その向こう側を見てしまったという思いがするのです。/そのなかにいまわたしたちが生きている、ブルジョワ・デモクラシーは、いやなものです。ブルジョワの政治家を鎖につないで、いつも鞭をあてていることは必要です。だけどこの犬をなぐり殺すわけにもいかない。だってチャーチルの言い草じゃないけど、このいやらしいブルジョワ・デモクラシーよりましなものをわたしたちはまだ持っていないのだから。(p.30)


敗戦問題でシベリア抑留体験は、個別的記録として残されているけれど、戦後60年を経過しても、「戦後は終わっていない」こと、木下氏のいう「未清算の過去」として「大東亜戦争」をトータルに捉えることの困難さを思い知らされる。