資本主義から市民主義へ


資本主義から市民主義へ

資本主義から市民主義へ


岩井克人三浦雅士が聞き手となった対談集『資本主義から市民主義へ』(新書館)は、岩井氏の貨幣論・ポスト産業資本主義、市民社会について実に刺激的な内容を引き出しており、不透明な世界に何かが視えるように思わせる。


貨幣論

貨幣論


まず、岩井克人を一躍著名にさせた『貨幣論』(筑摩書房,1993)を踏まえた、「貨幣とは貨幣以外のものではない」という労働価値説の否定から、第2回小林秀雄賞を受賞した『会社はこれからどうなるのか』(平凡社, 2003)の内容を三浦雅士が手際よく説明しながら、ポスト産業資本主義の会社=法人に触れて行く。資本主義とは差異が利潤を生み出すシステムであるとする岩井氏の論理は明快にはじまる。


会社はこれからどうなるのか

会社はこれからどうなるのか


産業資本主義では、機械制工場を持っていれば低賃金労働者によって自動的に利潤が得られたが、ポスト産業資本主義では、意図的に差異を創出しなければならない。「法人」とは、ヒトであり同時にモノであるというのが、岩井氏の持論だ。


第1章「貨幣論」、第2章「資本主義論」は、岩井克人の理論が、説得的に展開される。第3章「法人論」では聞き手の三浦雅士が、「宗教」について岩井氏に尋ねる。岩井氏が、

(岩井)人間とは何かと問われたら、ぼくは、言語を語り、法にしたがい、貨幣を使う動物だと答えます。言語、法、貨幣といった社会的媒介について思考することは、そのまま人間について思考することだと思っているのです。(p.104)

と述べたのを受けて、「岩井さんに伺っていない重大な領域は、宗教です。」と三浦氏は迫る。しかし、宗教問題には、岩井氏は「カントの定言命題」や「資本主義は絶対に倫理性を必要とする」ということばを返すが、明確な回答がない。とくに、「法人論」における両者の対話は対等に進むので、スリリングでもある。


会社はだれのものか

会社はだれのものか


第4章「信任論」にいたり、三浦雅士は岩井氏の著作の先見性について次ぎのように述べる。

(三浦)ニッポン放送をめぐる買収劇が岩井さんの法人論をまるで解説するかのようだったということです。『会社はこれからどうなるのか』が刊行されたのがニ〇〇四年、ニッポン放送の買収合戦がニ〇〇五年、そして、岩井さんの法人論の第二弾とも言うべき『会社はだれのものか』がニ〇〇五年です。岩井さんはその買収劇を解説するために書いたのではない。逆に現実のほうが、岩井さんの本を解説してしまった。(p.134-135)


岩井氏によれば、『不均衡動学の理論』は新古典派経済学の枠のなかで、古典派経済学以上のモデルをつくり、市場経済が本来的に不安定であることを証明し、『貨幣論』ではマルクス理論の枠内で、価値形態論をマルクス以上に忠実に展開するとマルクスの価値労働説が崩壊することを証明してみせた。当然であるが、岩井氏は、私有財産制が資本主義の基本=前提として理論を展開している。申すまでもなく岩井氏は「マルクス主義者」ではなく、「株主主権論」を否定しているに過ぎない。


岩井氏は「信任論」を経済学史的に研究したいといえば、三浦氏は、経済学史は弟子に任せればいいと提言する。「法人論」から「信任論」では聞き手の三浦雅士が、岩井氏を圧倒している。「聞き手」が優れていると、<語り>より<対談>に近くなり、俄然面白くなる。*1



第5章「市民社会論」になると、岩井克人は貨幣の自己循環論に、カントの定言命題から倫理を持ち出す。私的所有を前提とする資本主義が形式的あることで、それは「無根拠」であると三浦氏は反論(?)する。

(岩井)ただ、一歩、社会責任論に足を踏み入れると、単純な私的所有権の枠組みをちょっとはずれてきます。ぼくの市民社会論は、市民社会の定義がまだはっきりしていないんだけど、現在のところとりあえず、市民社会とは資本主義にも還元できなければ国家にも還元できない人間と人間の関係であると定義しています。資本主義的な意味での自己利益を追求する以上の、何か別の目的をもって行動し、国家の一員として当然果たさなければ、ならない責任以上の責任を感じて行動する人間の社会だということです。それが社会的責任だと思います。(p.206)


ここで三浦氏が、それでは「社会主義者」ではないかと突っ込む。岩井氏の貨幣論や法人論は、ヒトとモノの二面性で説得的だが、カントの倫理から、「市民社会論」に発展すると危うくなる。三浦氏は、岩井克人の「貨幣論」や「法人論」を高く評価しながらも、資本主義の根源的な力には「人間存在の根底の不在」があり、いかにその不安定さを克服するか。そこから第6章「人間論」にたどり着く。


言語・法・貨幣という自己循環法の問題は、法が国家に、貨幣が資本主義に、そして言語が市民社会に対応すると、岩井氏の言説を三浦氏は解かり易くまとめている。

(岩井)ミルトン・フリードマンのような単純な新古典派経済学の人たちは、ぜんぶ利潤追求でOKだと語っていますが、ぼくは逆に、資本主義そのものに矛盾があるということを、不均衡動学で論証し、貨幣論で論証し、会社論でも論証しているわけです。会社論では信任が必要だ、倫理が必要だということを語っている。つまり資本主義はつねにどこかで市民社会とつながっていなければならない。そうしなれば、自己崩壊の危機をつねにかかえてしまうことになる。・・・(中略)・・・やはり、法が自己循環的な構造をもっているがゆえに、どこかで市民社会とつながっていなければ、自己崩壊してしまう危険をつねにかかえてしまう。(p.273−274)


市民社会」とは何かがいまひとつ明瞭でない。三浦雅士が最後に次のようにまとめる。

(三浦)もっとも重要なことは、言語・法・貨幣は自己循環法によって成立しているという岩井さんの理論は、じつは警鐘としてあるのだということを忘れてはならないということでしょうね。それは言語も法も貨幣もそれ自体によってしか保証されないということであって、いつ崩壊してもおかしくないんだ。だからこそ、それらはみなパニツクを恐れて、人は超越をもとめてしまう。それは言語にかんして言えば神、国家にかんして言えば人民、貨幣にかんして言えば労働であったりする。すべて宗教か、その代替物になるものばかりです。それ自体によってしか保証されないということは根拠がないということで、その空隙にさまざまな擬似根拠が入りこむ。(p.276)


ここにきて、三浦雅士岩井克人を凌駕している。上述の超越にいたる危機を克服するために、岩井克人による『資本主義から市民主義へ』という考え方が確かな力を持たなければならない時代になっている、と三浦氏は締めくくる。結局、「市民社会」あるいは「市民主義」という言葉の定義が曖昧なまま、対談は終了する。ここに、資本主義の先行き不安が露呈しているといえないだろうか。


青春の終焉

青春の終焉


いずれにせよ、本書から、言語・法・貨幣の自己循環的な「空虚さ」がわかり、ポスト産業資本主義における差異の無限の創出という終わりなき競争世界が見えてくる。自己崩壊を抱えた資本主義の行方について、思考を強いるきわめて刺激に富んだ書物であることは確かだ。


ヴェニスの商人の資本論 (ちくま学芸文庫)

ヴェニスの商人の資本論 (ちくま学芸文庫)

二十一世紀の資本主義論

二十一世紀の資本主義論

*1:もっとも元気であった頃の『現代思想』(青土社)の元編集者にして、現在『大航海』の編集者である三浦雅士が聞き手となったがゆえに、本書が読み応えある内容になっている。